|中《ちゅう》の碑碣《ひけつ》を睹《み》た人が三人になった。保さんと游さんと墨汁師とである。そして游さんは湮滅《いんめつ》の期に薄《せま》っていた墓誌銘の幾句を、図らずも救抜してくれたのである。
その十九
弘福寺《こうふくじ》の現住墨汁師は大正五年に入《い》ってからも、捜索の手を停《とど》めずにいた。そしてとうとう下目黒《しもめぐろ》村|海福寺《かいふくじ》所蔵の池田氏|過去帖《かこちょう》というものを借り出して、わたくしに見せてくれた。帖は表紙を除いて十五枚のものである。表紙には生田氏《いくたうじ》中興池田氏過去帖慶応紀元季秋の十七字が四行に書してある。跋文《ばつぶん》を読むに、この書は二世|瑞仙晋《ずいせんしん》の子|直温《ちょくおん》、字《あざな》は子徳《しとく》が、慶応元年九月六日に、初代瑞仙独美の五十年|忌辰《きしん》に丁《あた》って、新《あらた》に歴代の位牌《いはい》を作り、併《あわ》せてこれを纂記《さんき》して、嶺松寺に納めたもので、直温の自筆である。
この書には池田氏の一族百八人の男女を列記してあるが、その墓所はあるいは注してあり、あるいは注してない。分明《ぶんみょう》に嶺松寺に葬る、または嶺寺に葬ると注してあるのは初代瑞仙、その妻|佐井氏《さいうじ》、二代瑞仙、その二男|洪之助《こうのすけ》、二代瑞仙の兄|信一《しんいち》の五人に過ぎない。しかし既に京水《けいすい》の墓が同じ寺にあったとすると、徒士町《かちまち》の池田氏の人々の墓もこの寺にあっただろう。要するに嶺松寺にあったという確証のある墓は、この書に注してある駿河台《するがだい》の池田氏の墓五基と、京水の墓とで、合計六基である。
この書の記《き》する所は、わたくしのために創聞《そうぶん》に属するものが頗《すこぶ》る多い。就中《なかんずく》異《い》とすべきは、独美に玄俊《げんしゅん》という弟があって、それが宇野氏を娶《めと》って、二人の間に出来た子が京水だという一事《いちじ》である。この書に拠《よ》れば、独美は一旦《いったん》姪《てつ》京水を養って子として置きながら、それに家を嗣《つ》がせず、更に門人|村岡晋《むらおかしん》を養って子とし、それに業を継がせたことになる。
然るに富士川さんの抄した墓誌には、京水は独美の子で廃せられたと書してあったらしい。しかもその廃せられた所以《ゆえん》を書して放縦|不覊《ふき》にして人に容《い》れられず、遂《つい》に多病を以て廃せらるといってあったらしい。
両説は必ずしも矛盾してはいない。独美は弟玄俊の子京水を養って子とした。京水が放蕩《ほうとう》であった。そこで京水を離縁して門人晋を養子に入れたとすれば、その説通ぜずというでもない。
しかし京水が後《のち》能《よ》く自ら樹立して、その文章事業が晋に比して毫《ごう》も遜色《そんしょく》のないのを見るに、この人の凡庸でなかったことは、推測するに難《かた》くない。著述の考うべきものにも、『痘科挙要《とうかきょよう》』二巻、『痘科|鍵会通《けんかいつう》』一巻、『痘科|鍵私衡《けんしこう》』五巻、抽斎をして筆授せしめた『護痘要法《ごとうようほう》』一巻がある。養父独美が視《み》ること尋常|蕩子《とうし》の如くにして、これを逐《お》うことを惜《おし》まなかったのは、恩少きに過ぐというものではあるまいか。
かつわたくしは京水の墓誌が何人《なにひと》の撰文《せんぶん》に係るかを知らない。しかし京水が果して独美の姪《てつ》であったなら、縦《たと》い独美が一時養って子となしたにもせよ、直《ただち》に瑞仙の子なりと書したのはいかがのものであろうか。富士川さんの如きも、『日本医学史』に、墓誌に拠って瑞仙の子なりと書しているのである。また放縦だとか廃嗣だとかいうことも、此《かく》の如くに書したのが、墓誌として体《たい》を得たものであろうか。わたくしは大いにこれを疑うのである。そして墓誌の全文を見ることを得ず、その撰者を審《つまびらか》にすることを得ざるのを憾《うらみ》とする。
わたくしは独《ひとり》撰者不詳の京水墓誌を疑うのみではない。また二世瑞仙晋の撰んだ池田|氏《し》行状をも疑わざることを得ない。文は載せて『事実文編』四十五にある。
行状に拠るに、初代瑞仙独美は享保二十年|乙卯《いつぼう》五月二十二日に生れ、文化十三年|丙子《へいし》九月六日に歿した。然るに安永六年|丁酉《ていゆう》に四十、寛政四年|壬子《じんし》に五十五、同九年|丁巳《ていし》に六十四、歿年に八十三と書してある。これは生年から順算すれば、四十三、五十八、六十三、八十二でなくてはならない。齢《よわい》を記《き》するごとに、殆《ほとん》ど必ず差《たが》っているのは何故《なにゆえ》であろうか。因《ちなみ》にいうが過去帖にもまた齢八十三としてある。そこでわたくしはこの八十三より逆算することにした。
その二十
晋《しん》の撰んだ池田氏行状には、初代瑞仙の庶子|善直《ぜんちょく》というものを挙げて、「多病不能継業《やまいおおくぎょうをつぐあたわず》」と書してある。その前に初代瑞仙が病中晋に告げた語を記して、八十四|言《げん》の多きに及んである。瑞仙は痘を治《ち》することの難きを説いて、「数百之|弟子《でし》、無能熟得之者《よくじゅくとくせるものなし》」といい、晋を賞して、「而汝能継我業《しこうしてなんじよくわがぎょうをつぐ》」といっている。
わたくしはいまだ過去帖を獲ざる前にこれを読んで、善直は京水の初《はじめ》の名であろうと思った。京水の墓誌に多病を以て嗣《し》を廃せらるというように書してあったというのと、符節は合《あわ》するようだからである。過去帖に従えば、庶子善直と姪《てつ》京水とは別人でなくてはならない。しかし善直と京水とが同人ではあるまいか、京水が玄俊の子でなくて、初代瑞仙の子ではあるまいかという疑《うたがい》が、今に迄《いた》るまでいまだ全くわたくしの懐《かい》を去らない。特に彼《かの》過去帖に遠近の親戚《しんせき》百八人が挙げてあるのに、初代瑞仙のただ一人の実子善直というものが痕跡《こんせき》をだに留《とど》めずに消滅しているという一事は、この疑を助長する媒《なかだち》となるのである。
そしてわたくしは撰者不詳の墓誌の残欠に、京水が刺《そし》ってあるのを見ては、忌憚《きたん》なきの甚だしきだと感じ、晋が養父の賞美の語を記《き》して、一の抑損の句をも著《つ》けぬのを見ては、簡傲《かんごう》もまた甚だしいと感ずることを禁じ得ない。わたくしには初代瑞仙独美、二世瑞仙晋、京水の三人の間に或るドラアムが蔵せられているように思われてならない。わたくしの世の人に教を乞いたいというのはこれである。
わたくしは抽斎の誕生を語るに当って、後《のち》にその師となるべき人々を数えた。それは抽斎の生れた時、四十一歳であった迷庵、三十一歳であった※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎《えきさい》、二十九歳であった蘭軒の三人と、京水とであって、独り京水は過去帖を獲るまでその齢《よわい》を算することが出来なかった。なぜというに、京水の歿年が天保七年だということは、保さんが知っていたが、年歯《ねんし》に至っては全く所見がなかったからである。
過去帖に拠れば京水の父玄俊は名を某、字《あざな》を信卿《しんけい》といって寛政九年八月二日に、六十歳で歿し、母宇野氏は天明六年に三十六歳で歿した。そして京水は天保七年十一月十四日に、五十一歳で歿したのである。法諡《ほうし》して宗経軒《そうけいけん》京水|瑞英居士《ずいえいこじ》という。
これに由って観《み》れば、京水は天明六年の生《うまれ》で、抽斎の生れた文化二年には二十歳になっていた。抽斎の四人の師の中《うち》では最年少者であった。
後に抽斎と交《まじわ》る人々の中、抽斎に先《さきだ》って生れた学者は、安積艮斎《あさかごんさい》、小島成斎、岡本|况斎《きょうさい》、海保漁村である。
安積艮斎は抽斎との交《まじわり》が深くなかったらしいが、抽斎をして西学《せいがく》を忌む念を翻《ひるがえ》さしめたのはこの人の力である。艮斎、名は重信《しげのぶ》、修して信《しん》という。通称は祐助《ゆうすけ》である。奥州|郡山《こおりやま》の八幡宮《はちまんぐう》の祠官《しかん》安藤筑前《あんどうちくぜん》親重《ちかしげ》の子で、寛政二年に生れたらしい。十六歳の時、近村の里正《りせい》今泉氏《いまいずみうじ》の壻になって、妻に嫌われ、翌年江戸に奔《はし》った。しかし誰《たれ》にたよろうというあてもないので、うろうろしているのを、日蓮宗の僧|日明《にちみょう》が見附けて、本所《ほんじょ》番場町《ばんばちょう》の妙源寺《みょうげんじ》へ連れて帰って、数月《すうげつ》間|留《と》めて置いた。そして世話をして佐藤一斎《さとういっさい》の家の学僕にした。妙源寺は今艮斎の墓碑の立っている寺である。それから二十一歳にして林述斎《はやしじゅっさい》の門に入《い》った。駿河台に住んで塾を開いたのは二十四歳の時である。そうして見ると、抽斎の生れた文化二年は艮斎が江戸に入る前年で、十六歳であった。これは艮斎が万延《まんえん》元年十一月二十二日に、七十一歳で歿したものとして推算したのである。
小島成斎名は知足《ちそく》、字《あざな》は子節《しせつ》、初め静斎と号した。通称は五一である。※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎の門下で善書を以て聞えた。海保漁村の墓表に文久《ぶんきゅう》二年十月十八日に、六十七歳で歿したとしてあるから、抽斎の生れた文化二年には甫《はじ》めて十歳である。父|親蔵《しんぞう》が福山侯|阿部《あべ》備中守|正精《まさきよ》に仕えていたので、成斎も江戸の藩邸に住んでいた。
その二十一
岡本况斎、名は保孝《ほうこう》、通称は初め勘右衛門《かんえもん》、後|縫殿助《ぬいのすけ》であった。拙誠堂《せつせいどう》の別号がある。幕府の儒員に列せられた。『荀子《じゅんし》』、『韓非子《かんぴし》』、『淮南子《えなんじ》』等の考証を作り、旁《かたわら》国典にも通じていた。明治十一年四月までながらえて、八十二歳で歿した。寛政九年の生《うまれ》で、抽斎の生れた文化二年には僅《わずか》に九歳になっていたはずである。
海保漁村、名は元備《げんび》、字《あざな》は純卿《じゅんけい》、また名は紀之《きし》、字は春農《しゅんのう》ともいった。通称は章之助《しょうのすけ》、伝経廬《でんけいろ》の別号がある。寛政十年に上総国《かずさのくに》武射郡《むさごおり》北清水村《きたしみずむら》に生れた。老年に及んで経《けい》を躋寿館《せいじゅかん》に講ずることになった。慶応二年九月十八日に、六十九歳で歿した人である。抽斎の生れた文化二年には八歳だから、郷里にあって、父|恭斎《きょうさい》に句読《くとう》を授けられていたのである。
即ち学者の先輩は艮斎が十六、成斎が十《とお》、况斎が九つ、漁村が八つになった時、抽斎は生れたことになる。
次に医者の年長者には先ず多紀《たき》の本家、末家《ばつけ》を数える。本家では桂山《けいざん》、名は元|簡《かん》、字は廉夫《れんふ》が、抽斎の生れた文化二年には五十一歳、その子|柳※[#「さんずい+片」、第3水準1−86−57]《りゅうはん》、名は胤《いん》、字は奕禧《えきき》が十七歳、末家では※[#「くさかんむり/頤のへん」、第4水準2−86−13]庭《さいてい》、名は元堅《げんけん》、字は亦柔《えきじゅう》が十一歳になっていた。桂山は文化七年十二月二日に五十六歳で歿し、柳※[#「さんずい+片」、第3水準1−86−57]は文政十年六月三日に三十九歳で歿し、※[#「くさかんむり/頤のへん」、第4水準2−86−13]庭は安政四年二月十四日に六十三歳で歿したのである。
この中《うち》抽斎の最も親しくなったのは※[#「くさかんむり/頤のへん」、第4水
前へ
次へ
全45ページ中8ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング