準2−86−13]庭である。それから師伊沢蘭軒の長男|榛軒《しんけん》もほぼ同じ親しさの友となった。榛軒、通称は長安《ちょうあん》、後|一安《いちあん》と改めた。文化元年に生れて、抽斎にはただ一つの年上である。榛軒は嘉永五年十一月十七日に、四十九歳で歿した。
年上の友となるべき医者は、抽斎の生れた時十一歳であった※[#「くさかんむり/頤のへん」、第4水準2−86−13]庭と、二歳であった榛軒とであったといっても好《い》い。
次は芸術家|及《および》芸術批評家である。芸術家としてここに挙ぐべきものは谷文晁《たにぶんちょう》一人《いちにん》に過ぎない。文晁、本《もと》文朝に作る、通称は文五郎《ぶんごろう》、薙髪《ちはつ》して文阿弥《ぶんあみ》といった。写山楼《しゃざんろう》、画学斎《ががくさい》、その他の号は人の皆知る所である。初め狩野《かのう》派の加藤文麗《かとうぶんれい》を師とし、後|北山寒巌《きたやまかんがん》に従学して別に機軸を出《いだ》した。天保十一年十二月十四日に、七十八歳で歿したのだから、抽斎の生れた文化二年には四十三歳になっていた。二人《ににん》年歯《ねんし》の懸隔は、概《おおむ》ね迷庵におけると同じく、抽斎は画《が》をも少しく学んだから、この人は抽斎の師の中《うち》に列する方が妥当であったかも知れない。
わたくしはここに真志屋五郎作《ましやごろさく》と石塚重兵衛《いしづかじゅうべえ》とを数えんがために、芸術批評家の目《もく》を立てた。二人は皆劇通であったから、此《かく》の如くに名づけたのである。あるいはおもうに、批評家といわんよりは、むしろアマトヨオルというべきであったかも知れない。
抽斎が後《のち》劇を愛するに至ったのは、当時の人の眼《まなこ》より観《み》れば、一の癖好《へきこう》であった。どうらくであった。啻《ただ》に当時において然《しか》るのみではない。是《かく》の如くに物を観る眼《まなこ》は、今もなお教育家等の間に、前代の遺物として伝えられている。わたくしはかつて歴史の教科書に、近松《ちかまつ》、竹田《たけだ》の脚本、馬琴《ばきん》、京伝《きょうでん》の小説が出て、風俗の頽敗《たいはい》を致したと書いてあるのを見た。
しかし詩の変体としてこれを視《み》れば、脚本、小説の価値も認めずには置かれず、脚本に縁《よ》って演じ出《いだ》す劇も、高級芸術として尊重しなくてはならなくなる。わたくしが抽斎の心胸を開発して、劇の趣味を解するに至らしめた人々に敬意を表して、これを学者、医者、画家の次に数えるのは、好む所に阿《おもね》るのではない。
その二十二
真志屋五郎作は神田|新石町《しんこくちょう》の菓子商であった。水戸家《みとけ》の賄方《まかないかた》を勤めた家で、或《ある》時代から故《ゆえ》あって世禄《せいろく》三百俵を給せられていた。巷説《こうせつ》には水戸侯と血縁があるなどといったそうであるが、どうしてそんな説が流布《るふ》せられたものか、今考えることが出来ない。わたくしはただ風采《ふうさい》が好《よ》かったということを知っているのみである。保さんの母|五百《いお》の話に、五郎作は苦味走《にがみばし》った好《よ》い男であったということであった。菓子商、用達《ようたし》の外、この人は幕府の連歌師《れんがし》の執筆をも勤めていた。
五郎作は実家が江間氏《えまうじ》で、一時|長島《ながしま》氏を冒《おか》し、真志屋の西村氏を襲《つ》ぐに至った。名は秋邦《しゅうほう》、字《あざな》は得入《とくにゅう》、空華《くうげ》、月所《げっしょ》、如是縁庵《にょぜえんあん》等と号した。平生《へいぜい》用いた華押《かおう》は邦の字であった。剃髪《ていはつ》して五郎作|新発智東陽院寿阿弥陀仏曇※[#「大/周」、第3水準1−15−73]《しんぼっちとうよういんじゅあみだぶつどんちょう》と称した。曇※[#「大/周」、第3水準1−15−73]とは好劇家たる五郎作が、音《おん》の似通《にかよ》った劇場の緞帳《どんちょう》と、入宋《にゅうそう》僧※[#「大/周」、第3水準1−15−73]然《ちょうねん》の名などとを配合して作った戯号《げごう》ではなかろうか。
五郎作は劇神仙《げきしんせん》の号を宝田寿来《たからだじゅらい》に承《う》けて、後にこれを抽斎に伝えた人だそうである。
宝田寿来、通称は金之助《きんのすけ》、一に閑雅《かんが》と号した。『作者|店《たな》おろし』という書に、宝田とはもと神田より出《い》でたる名と書いてあるのを見れば、真《まこと》の氏《うじ》ではなかったであろう。浄瑠璃《じょうるり》『関《せき》の扉《と》』はこの人の作だそうである。寛政六年八月に、五十七歳で歿した。五郎作が二十六歳の時で、抽斎の生れる十一年前である。これが初代劇神仙である。
五郎作は歿年から推算するに、明和六年の生《うまれ》で、抽斎の生れた文化二年には三十七歳になっていた。抽斎から見ての長幼の関係は、師迷庵や文晁におけると大差はない。嘉永元年八月二十九日に、八十歳で歿したのだから、抽斎がこの二世劇神仙の後《のち》を襲《つ》いで三世劇神仙となったのは、四十四歳の時である。初め五郎作は抽斎の父|允成《ただしげ》と親しく交《まじわ》っていたが、允成は五郎作に先《さきだ》つこと十一年にして歿した。
五郎作は独り劇を看《み》ることを好んだばかりではなく、舞台のために製作をしたこともある。四世|彦三郎《ひこさぶろう》を贔屓《ひいき》にして、所作事《しょさごと》を書いて遣ったと、自分でいっている。レシタションが上手《じょうず》であったことは、同情のない喜多村※[#「竹かんむり/均」、第3水準1−89−63]庭《きたむらいんてい》が、台帳を読むのが寿阿弥の唯一の長技だといったのを見ても察せられる。
五郎作は奇行はあったが、生得《しょうとく》酒を嗜《たし》まず、常に養性《ようじょう》に意を用いていた。文政十年七月の末《すえ》に、姪《おい》の家の板の間《ま》から墜《お》ちて怪我《けが》をして、当時流行した接骨家|元大坂町《もとおおさかちょう》の名倉弥次兵衛《なぐらやじべえ》に診察してもらうと、名倉がこういったそうである。お前さんは下戸《げこ》で、戒行《かいぎょう》が堅固で、気が強い、それでこれほどの怪我をしたのに、目を廻《まわ》さずに済んだ。この三つが一つ闕《か》けていたら、目を廻しただろう。目を廻したのだと、療治に二百日|余《あまり》掛かるが、これは百五、六十日でなおるだろうといったそうである。戒行とは剃髪《ていはつ》した後《のち》だからいったものと見える。怪我は両臂《りょうひじ》を傷めたので骨には障《さわ》らなかったが痛《いたみ》が久しく息《や》まなかった。五郎作は十二月の末まで名倉へ通ったが、臂の※[#「やまいだれ+(鼾−自−干)」、第4水準2−81−55]《しびれ》だけは跡に貽《のこ》った。五十九歳の時の事である。
五郎作は文章を善くした。繊細の事を叙するに簡浄の筆を以てした。技倆《ぎりょう》の上から言えば、必ずしも馬琴、京伝に譲らなかった。ただ小説を書かなかったので、世の人に知られぬのである。これはわたくし自身の判断である。わたくしは大正四年の十二月に、五郎作の長文の手紙が売《うり》に出たと聞いて、大晦日《おおみそか》に築地《つきじ》の弘文堂へ買いに往った。手紙は罫紙《けいし》十二枚に細字《さいじ》で書いたものである。文政十一年二月十九日に書いたということが、記事に拠って明《あきら》かに考えられる。ここに書いた五郎作の性行も、半《なかば》は材料をこの簡牘《かんどく》に取ったものである。宛名《あてな》の※[#「くさかんむり/必」、第3水準1−90−74]堂《ひつどう》は桑原氏《くわばらうじ》、名は正瑞《せいずい》、字《あざな》は公圭《こうけい》、通称を古作《こさく》といった。駿河国島田駅の素封家で、詩|及《および》書を善くした。玄孫|喜代平《きよへい》さんは島田駅の北半里ばかりの伝心寺《でんしんじ》に住んでいる。五郎作の能文はこの手紙一つに徴して知ることが出来るのである。
その二十三
わたくしの獲《え》た五郎作の手紙の中に、整骨家名倉弥次兵衛の流行を詠んだ狂歌がある。臂《ひじ》を傷めた時、親しく治療を受けて詠んだのである。「研《と》ぎ上ぐる刃物ならねどうちし身の名倉のいしにかゝらぬぞなき。」わたくしは余り狂歌を喜ばぬから、解事者を以て自らおるわけではないが、これを蜀山《しょくさん》らの作に比するに、遜色《そんしょく》あるを見ない。※[#「竹かんむり/均」、第3水準1−15−73]庭《いんてい》は五郎作に文筆の才がないと思ったらしく、歌など少しは詠みしかど、文を書くには漢文を読むようなる仮名書して終れりといっているが、此《かく》の如きは決して公論ではない。※[#「竹かんむり/均」、第3水準1−15−73]庭は素《もと》漫罵《まんば》の癖《へき》がある。五郎作と同年に歿した喜多静廬《きたせいろ》を評して、性質風流なく、祭礼などの繁華なるを見ることを好めりといっている。風流をどんな事と心得ていたか。わたくしは強いて静廬を回護するに意があるのではないが、これを読んで、トルストイの芸術論に詩的という語の悪《あく》解釈を挙げて、口を極めて嘲罵《ちょうば》しているのを想い起した。わたくしの敬愛する所の抽斎は、角兵衛獅子《かくべえじし》を観《み》ることを好んで、奈何《いか》なる用事をも擱《さしお》いて玄関へ見に出たそうである。これが風流である。詩的である。
五郎作は少《わか》い時、山本北山《やまもとほくざん》の奚疑塾《けいぎじゅく》にいた。大窪天民《おおくぼてんみん》は同窓であったので後《のち》に※[#「二点しんにょう+台」、第3水準1−92−53]《いた》るまで親しく交った。上戸《じょうご》の天民は小さい徳利を蔵《かく》して持っていて酒を飲んだ。北山が塾を見廻ってそれを見附けて、徳利でも小さいのを愛すると、その人物が小さくおもわれるといった。天民がこれを聞いて大樽《おおだる》を塾に持って来たことがあるそうである。下戸《げこ》の五郎作は定めて傍《はた》から見て笑っていたことであろう。
五郎作はまた博渉家《はくしょうか》の山崎美成《やまざきよししげ》や、画家の喜多可庵《きたかあん》と往来していた。中にも抽斎より僅《わずか》に四つ上の山崎は、五郎作を先輩として、疑《うたがい》を質《ただ》すことにしていた。五郎作も珍奇の物は山崎の許《もと》へ持って往って見せた。
文政六年四月二十九日の事である。まだ下谷《したや》長者町《ちょうじゃまち》で薬を売っていた山崎の家へ、五郎作はわざわざ八百屋《やおや》お七《しち》のふくさというものを見せに往った。ふくさは数代|前《まえ》に真志屋《ましや》へ嫁入した島《しま》という女の遺物である。島の里方《さとかた》を河内屋半兵衛《かわちやはんべえ》といって、真志屋と同じく水戸家の賄方《まかないかた》を勤め、三人扶持を給せられていた。お七の父八百屋|市左衛門《いちざえもん》はこの河内屋の地借《じかり》であった。島が屋敷奉公に出る時、穉《おさな》なじみのお七が七寸四方ばかりの緋縮緬《ひぢりめん》のふくさに、紅絹裏《もみうら》を附けて縫ってくれた。間もなく本郷|森川宿《もりかわじゅく》のお七の家は天和《てんな》二年十二月二十八日の火事に類焼した。お七は避難の間に情人《じょうにん》と相識《そうしき》になって、翌年の春家に帰った後《のち》、再び情人と相見ようとして放火したのだそうである。お七は天和三年三月二十九日に、十六歳で刑せられた。島は記念《かたみ》のふくさを愛蔵して、真志屋へ持って来た。そして祐天上人《ゆうてんしょうにん》から受けた名号《みょうごう》をそれに裹《つつ》んでいた。五郎作は新《あらた》にふくさの由来を白絹に書いて縫い附けさせたので、山崎に持って来て見せたのである。
五郎作と相似て、抽斎
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