墓の事を語ったのは保《たもつ》さんである。保さんは幼い時京水の墓に詣《もう》でたことがある。しかし寺の名は記憶していない。ただ向島であったというだけである。そのうちわたくしは富士川|游《ゆう》さんに種々の事を問いに遣《や》った。富士川さんがこれに答えた中に、京水の墓は常泉寺の傍《かたわら》にあるという事があった。
 わたくしは幼い時|向島《むこうじま》小梅村に住んでいた。初《はじめ》の家は今|須崎町《すさきちょう》になり、後《のち》の家は今小梅町になっている。その後《のち》の家から土手へ往《ゆ》くには、いつも常泉寺の裏から水戸邸《みとやしき》の北のはずれに出た。常泉寺はなじみのある寺である。
 わたくしは常泉寺に往った。今は新小梅町の内になっている。枕橋《まくらばし》を北へ渡って、徳川家の邸の南側を行くと、同じ側に常泉寺の大きい門がある。わたくしは本堂の周囲にある墓をも、境内の末寺《まつじ》の庭にある墓をも一つ一つ検した。日蓮宗《にちれんしゅう》の事だから、江戸の市人《いちびと》の墓が多い。知名の学者では、朝川善庵《あさかわぜんあん》の一家《いっけ》の墓が、本堂の西にあるだけである。本堂の東南にある末寺に、池田氏の墓が一基あったが、これは例の市人らしく、しかも無縁同様のものと見えた。
 そこで寺僧に請うて過去帖を見たが、帖は近頃作ったもので、いろは順に檀家《だんか》の氏《うじ》が列記してある。いの部には池田氏がない。末寺の墓地にある池田氏の墓は果して無縁であった。
 わたくしは空《むな》しく還《かえ》って、先ず郷人《きょうじん》宮崎幸麿《みやさきさきまろ》さんを介して、東京《とうけい》の墓の事に精《くわ》しい武田信賢《たけだしんけん》さんに問うてもらったが、武田さんは知らなかった。
 そのうちわたくしは『事実文編』四十五に霧渓《むけい》の撰んだ池田|氏《し》行状のあるのを見出した。これは養父初代瑞仙の行状で、その墓が向島嶺松寺にあることを記《しる》してある。素《もと》嶺松寺には戴曼公《たいまんこう》の表石《ひょうせき》があって、瑞仙はその側《かたわら》に葬られたというのである。向島にいたわたくしも嶺松寺という寺は知らなかった。しかし既に初代瑞仙が嶺松寺に葬られたなら、京水もあるいはそこに葬られたのではあるまいかと推量した。
 わたくしは再び向島へ往った。そして新小梅町、小梅町、須崎町の間を徘徊《はいかい》して捜索したが、嶺松寺という寺はない。わたくしは絶望して踵《くびす》を旋《めぐら》したが、道のついでなので、須崎町|弘福寺《こうふくじ》にある先考の墓に詣でた。さて住職|奥田墨汁《おくだぼくじゅう》師を訪《とぶら》って久闊《きゅうかつ》を叙《じょ》した。対談の間に、わたくしが嶺松寺と池田氏の墓との事を語ると、墨汁師は意外にも両《ふた》つながらこれを知っていた。
 墨汁師はいった。嶺松寺は常泉寺の近傍にあった。その畛域《しんいき》内に池田氏の墓が数基並んで立っていたことを記憶している。墓には多く誌銘が刻してあった。然るに近い頃に嶺松寺は廃寺になったというのである。わたくしはこれを聞いて、先ず池田氏の墓を目撃した人を二人《ふたり》まで獲《え》たのを喜んだ。即ち保さんと墨汁師とである。
「廃寺になるときは、墓はどうなるものですか」と、わたくしは問うた。
「墓は檀家がそれぞれ引き取って、外の寺へ持って行きます。」
「檀家がなかったらどうなりますか。」
「無縁の墓は共同墓地へ遷《うつ》す例になっています。」
「すると池田家の墓は共同墓地へ遣られたかも知れませんな。池田家の後《のち》は今どうなっているかわかりませんか。」こういってわたくしは憮然《ぶぜん》とした。

   その十七

 わたくしは墨汁師にいった。池田瑞仙の一族は当年の名医である。その墓の行方《ゆくえ》は探討したいものである。それに戴曼公《たいまんこう》の表石というものも、もし存していたら、名蹟の一に算すべきものであろう。嶺松寺にあった無縁の墓は、どこの共同墓地へ遷《うつ》されたか知らぬが、もしそれがわかったなら、尋ねに往《ゆ》きたいものであるといった。
 墨汁師も首肯していった。戴氏|独立《どくりゅう》の表石の事は始《はじめ》て聞いた。池田氏の上のみではない。自分も黄檗《おうばく》の衣鉢《いはつ》を伝えた身であって見れば、独立の遺蹟の存滅を意に介せずにはいられない。想うに独立は寛文中九州から師|隠元《いんげん》を黄檗山に省《せい》しに上《のぼ》る途中で寂《じゃく》したらしいから、江戸には墓はなかっただろう。嶺松寺の表石とはどんな物であったか知らぬが、あるいは牙髪塔《がはつとう》の類《たぐい》ででもあったか。それはともかくも、その石の行方も知りたい。心当りの向々《むきむき》へ問い合せて見ようといった。
 わたくしの再度の向島探討は大正四年の暮であったので、そのうちに五年の初《はじめ》になった。墨汁師の新年の書信に問合せの結果が記《しる》してあったが、それは頗《すこぶ》る覚束《おぼつか》ない口吻《こうふん》であった。嶺松寺の廃せられた時、その事に与《あずか》った寺々に問うたが、池田氏の墓には檀家がなかったらしい。当時無縁の墓を遷した所は、染井《そめい》共同墓地であった。独立の表石というものは誰《たれ》も知らないというのである。
 これでは捜索の前途には、殆ど毫《すこ》しの光明をも認めることが出来ない。しかしわたくしは念晴《ねんばら》しのために、染井へ尋ねに往《い》った。そして墓地の世話をしているという家を訪うた。
 墓にまいる人に樒《しきみ》や綫香《せんこう》を売り、また足を休めさせて茶をも飲ませる家で、三十ばかりの怜悧《かしこ》そうなお上《かみ》さんがいた。わたくしはこの女の口から絶望の答を聞いた。共同墓地と名にはいうが、その地面には井然《せいぜん》たる区画があって、毎区に所有主がある。それが墓の檀家である。そして現在の檀家の中《うち》には池田という家はない。池田という檀家がないから、池田という人の墓のありようがないというのである。
「それでも新聞に、行倒《ゆきだお》れがあったのを共同墓地に埋めたということがあるではありませんか。そうして見れば檀家のない仏の往《い》く所があるはずです。わたくしの尋ねるのは、行倒れではないが、前に埋めてあった寺が取払《とりはらい》になって、こっちへ持って来られた仏です。そういう時、石塔があれば石塔も運んで来るでしょう。それをわたくしは尋ねるのです。」こういってわたくしは女の毎区有主説に反駁《はんばく》を試みた。
「ええ、それは行倒れを埋める所も一カ所ございます。ですけれど行倒れに石塔を建てて遣《や》る人はございません。それにお寺から石塔を運んで来たということは、聞いたこともございません。つまりそんな所には石塔なんぞは一つもないのでございます。」
「でもわたくしは切角《せっかく》尋ねに来たものですから、そこへ往って見ましょう。」
「およしなさいまし。石塔のないことはわたくしがお受合《うけあい》申しますから。」こういって女は笑った。
 わたくしもげにもと思ったので、墓地には足を容《い》れずに引き返した。
 女の言《こと》には疑うべき余地はない。しかしわたくしは責任ある人の口から、同じ事をでも、今一度聞きたいような気がした。そこで帰途に町役場に立ち寄って問うた。町役場の人は、墓地の事は扱わぬから、本郷区役所へ往けといった。
 町役場を出た時、もう冬の日が暮れ掛かっていた。そこでわたくしは思い直した。廃寺になった嶺松寺から染井共同墓地へ墓石の来なかったことは明白である。それを区役所に問うのは余りに痴《おろか》であろう。むしろ行政上無縁の墓の取締《とりしまり》があるか、もしあるなら、どう取り締まることになっているかということを問うに若《し》くはない。その上今から区役所に往った所で、当直の人に墓地の事を問うのは甲斐《かい》のない事であろう。わたくしはこう考えて家に還《かえ》った。

   その十八

 わたくしは人に問うて、墓地を管轄するのが東京府庁で、墓所の移転を監視するのが警視庁だということを知った。そこで友人に託して、府庁では嶺松寺の廃絶に関してどれだけの事が知り得られるか、また警視庁は墓所の移転をどの位の程度に監視することになっているかということを問うてもらった。
 府庁には明治十八年に作られた墓地の台帳ともいうべきものがある。しかし一応それを検した所では、嶺松寺という寺は載せてないらしかった。その廃絶に関しては、何事をも知ることが出来ぬのである。警視庁は廃寺等のために墓碣《ぼけつ》を搬出するときには警官を立ち会わせる。しかしそれは有縁《うえん》のものに限るので、無縁のものはどこの共同墓地に改葬したということを届け出《い》でさせるに止《とど》まるそうである。
 そうして見れば、嶺松寺の廃せられた時、境内の無縁の墓が染井共同墓地に遷《うつ》されたというのは、遷したという一紙の届書《とどけしょ》が官庁に呈せられたに過ぎぬかも知れない。所詮《しょせん》今になって戴曼公《たいまんこう》の表石や池田氏の墓碣の踪迹《そうせき》を発見することは出来ぬであろう。わたくしは念を捜索に絶つより外あるまい。
 とかくするうちに、わたくしが池田|京水《けいすい》の墓を捜し求めているということ、池田氏の墓のあった嶺松寺が廃絶したということなどが『東京朝日新聞』の雑報に出た。これはわたくしが先輩知友に書を寄せて問うたのを聞き知ったものであろう。雑報の掲げられた日の夕方、無名の人がわたくしに電話を掛けていった。自分はかつて府庁にいたものである。その頃無税地|反別帳《たんべつちょう》という帳簿があった。もしそれがなお存しているなら、嶺松寺の事が載せてあるかも知れないというのである。わたくしは無名の人の言《こと》に従って、人に託して府庁に質《ただ》してもらったが、そういう帳簿はないそうであった。
 この事件に関してわたくしの往訪した人、書を寄せて教を乞《こ》うた人は頗《すこぶ》る多い。初《はじめ》にはわたくしは墓誌を読まんがために、墓の所在を問うたが、後にはせめて京水の歿した年齢だけなりとも知ろうとした。わたくしは抽斎の生れた年に、市野迷庵《いちのめいあん》が何歳、狩谷※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎《かりやえきさい》が何歳、伊沢蘭軒《いさわらんけん》が何歳ということを推算したと同じく、京水の年齢をも推算して見たく、もしまた数字を以て示すことが出来ぬなら、少くもアプロクシマチイフにそれを忖度《そんたく》して見たかったのである。
 諸家の中《うち》でも、戸川残花《とがわざんか》さんはわたくしのために武田信賢《たけだしんけん》さんに問うたり、南葵《なんき》文庫所蔵の書籍を検したりしてくれ、呉秀三《くれしゅうぞう》さんは医史の資料について捜索してくれ、大槻文彦《おおつきふみひこ》さんは如電《にょでん》さんに問うてくれ、如電さんは向島へまで墓を探りに往ってくれた。如電さんの事は墨汁師の書状によって知ったが、恐らくは郷土史の嗜好《しこう》あるがために、踏査の労をさえ厭《いと》わなかったのであろう。ただ憾《うら》むらくもわたくしは徒《いたずら》にこれらの諸家を煩わしたに過ぎなかった。
 これに反してわたくしが多少積極的に得る所のあったのは、富士川游さんと墨汁師とのお蔭《かげ》である。わたくしは数度書状の往復をした末に、或日富士川さんの家を訪《と》うた。そしてこういうことを聞いた。富士川さんは昔年《せきねん》日本医学史の資料を得ようとして、池田氏の墓に詣《もう》でた。医学史の記載中脚註に墓誌と書してあるのは、当時墓について親しく抄記したものだというのである。惜《おし》むらくは富士川さんは墓誌銘の全文を写して置かなかった。また嶺松寺という寺号をも忘れていた。それゆえわたくしに答えた書に常泉寺の傍《かたわら》と記《しる》したのである。是《ここ》においてかつて親しく嶺松寺
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