歳の時だというから、恐らくは迷庵を喪《うしな》って※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎に適《ゆ》いたのであろう。迷庵の六十二歳で亡くなった文政九年八月十四日は、抽斎が二十二歳、※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎が五十二歳になっていた年である。迷庵も※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎も古書を集めたが、※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎は古銭をも集めた。漢代《かんだい》の五物《ごぶつ》を蔵して六漢道人《ろっかんどうじん》と号したので、人が一物《いちぶつ》足らぬではないかと詰《なじ》った時、今一つは漢学だと答えたという話がある。抽斎も古書や「古武鑑」を蔵していたばかりでなく、やはり古銭癖《こせんへき》があったそうである。
 迷庵と※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎とは、年歯《ねんし》を以《もっ》て論ずれば、彼が兄、此《これ》が弟であるが、考証学の学統から見ると、※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎が先で、迷庵が後《のち》である。そしてこの二人の通称がどちらも三右衛門であった。世にこれを文政の六右衛門と称する。抽斎は六右衛門のどちらにも師事したわけである。
 六右衛門の称は頗《すこぶ》る妙である。然《しか》るに世の人は更に一人《ひとり》の三右衛門を加えて、三三右衛門などともいう。この今一人の三右衛門は喜多氏《きたうじ》、名は慎言《しんげん》、字は有和《ゆうわ》、梅園《ばいえん》また静廬《せいろ》と号し、居《お》る所を四当書屋《しとうしょおく》と名づけた。その氏の喜多を修して北《ほく》慎言とも署した。新橋《しんばし》金春《こんぱる》屋敷に住んだ屋根|葺《ふき》で、屋根屋三右衛門が通称である。本《もと》は芝《しば》の料理店|鈴木《すずき》の倅《せがれ》定次郎《さだじろう》で、屋根屋へは養子に来た。少《わか》い時狂歌を作って網破損針金《あみのはそんはりがね》といっていたのが、後|博渉《はくしょう》を以て聞えた。嘉永元年三月二十五日に、八十三歳で亡くなったというから、抽斎の生れた時には、その師となるべき迷庵と同じく四十一歳になっていたはずである。この三右衛門が殆ど毎日往来した小山田与清《おやまだともきよ》の『擁書楼《ようしょろう》日記』を見れば、文化十二年に五十一歳だとしてあるから、この推算は誤っていないつもりである。しかしこの人を迷庵※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎と併《あわ》せ論ずるのは、少しく西人《せいじん》のいわゆる髪を握《つか》んで引き寄せた趣がある。屋根屋三右衛門と抽斎との間には、交際がなかったらしい。

   その十四

 後に抽斎に医学を授ける人は伊沢蘭軒である。名は信恬《しんてん》、通称は辞安《じあん》という。伊沢|氏《うじ》の宗家《そうか》は筑前国《ちくぜんのくに》福岡《ふくおか》の城主|黒田家《くろだけ》の臣であるが、蘭軒はその分家で、備後国《びんごのくに》福山の城主|阿部伊勢守《あべいせのかみ》正倫《まさとも》の臣である。文政十二年三月十七日に歿して、享年五十三であったというから、抽斎の生れた時二十九歳で、本郷《ほんごう》真砂町《まさごちょう》に住んでいた。阿部家は既に備中守《びっちゅうのかみ》正精《まさきよ》の世になっていた。蘭軒が本郷丸山の阿部家の中屋敷に移ったのは後の事である。
 阿部家は尋《つい》で文政九年八月に代替《だいがわり》となって、伊予守|正寧《まさやす》が封《ほう》を襲《つ》いだから、蘭軒は正寧の世になった後《のち》、足掛《あしかけ》四年阿部家の館《やかた》に出入《いでいり》した。その頃抽斎の四人目の妻|五百《いお》の姉が、正寧の室《しつ》鍋島氏《なべしまうじ》の女小姓を勤めて金吾《きんご》と呼ばれていた。この金吾の話に、蘭軒は蹇《あしなえ》であったので、館内《かんない》で輦《れん》に乗ることを許されていた。さて輦から降りて、匍匐《ほふく》して君側《くんそく》に進むと、阿部家の奥女中が目を見合せて笑った。或日《あるひ》正寧が偶《たまたま》この事を聞き知って、「辞安は足はなくても、腹が二人前《ににんまえ》あるぞ」といって、女中を戒めさせたということである。
 次は抽斎の痘科《とうか》の師となるべき人である。池田氏、名は※[#「大/淵」、48−5]《いん》、字《あざな》は河澄《かちょう》、通称は瑞英《ずいえい》、京水《けいすい》と号した。
 原来《がんらい》疱瘡《ほうそう》を治療する法は、久しく我国には行われずにいた。病が少しく重くなると、尋常の医家は手を束《つか》ねて傍看《ぼうかん》した。そこへ承応《じょうおう》二年に戴曼公《たいまんこう》が支那から渡って来て、不治の病を治《ち》し始めた。※[#「龍/共」、第3水準1−94−87]廷賢《きょうていけん》を宗《そう》とする治法を施したのである。曼公、名は笠《りつ》、杭州《こうしゅう》仁和県《じんわけん》の人で、曼公とはその字《あざな》である。明《みん》の万暦《ばんれき》二十四年の生《うまれ》であるから、長崎に来た時は五十八歳であった。曼公が周防国《すおうのくに》岩国《いわくに》に足を留めていた時、池田|嵩山《すうざん》というものが治痘の法を受けた。嵩山は吉川《きっかわ》家の医官で、名を正直《せいちょく》という。先祖《せんそ》は蒲冠者《かばのかんじゃ》範頼《のりより》から出て、世々《よよ》出雲《いずも》におり、生田《いくた》氏を称した。正直の数世《すせい》の祖|信重《しんちょう》が出雲から岩国に遷《うつ》って、始《はじめ》て池田氏に更《あらた》めたのである。正直の子が信之《しんし》、信之の養子が正明《せいめい》で、皆曼公の遺法を伝えていた。
 然るに寛保二年に正明が病んでまさに歿せんとする時、その子|独美《どくび》は僅《わずか》に九歳であった。正明は法を弟|槙本坊詮応《まきもとぼうせんおう》に伝えて置いて瞑《めい》した。そのうち独美は人と成って、詮応に学んで父祖の法を得た。宝暦十二年独美は母を奉じて安芸国《あきのくに》厳島《いつくしま》に遷った。厳島に疱瘡が盛《さかん》に流行したからである。安永二年に母が亡くなって、六年に独美は大阪に往《ゆ》き、西堀江《にしほりえ》隆平橋《りゅうへいばし》の畔《ほとり》に住んだ。この時独美は四十四歳であった。
 独美は寛政四年に京都に出て、東洞院《ひがしのとういん》に住んだ。この時五十九歳であった。八年に徳川|家斉《いえなり》に辟《め》されて、九年に江戸に入《い》り、駿河台《するがだい》に住んだ。この年三月独美は躋寿館《せいじゅかん》で痘科を講ずることになって、二百俵を給せられた。六十四歳の時の事である。躋寿館には独美のために始て痘科の講座が置かれたのである。
 抽斎の生れた文化二年には、独美がまだ生存して、駿河台に住んでいたはずである。年は七十二歳であった。独美は文化十三年九月六日に八十三歳で歿した。遺骸《いがい》は向島《むこうじま》小梅村《こうめむら》の嶺松寺《れいしょうじ》に葬られた。
 独美、字は善卿《ぜんけい》、通称は瑞仙《ずいせん》、錦橋《きんきょう》また蟾翁《せんおう》と号した。その蟾翁と号したには面白い話がある。独美は或時大きい蝦蟇《がま》を夢に見た。それから『抱朴子《ほうぼくし》』を読んで、その夢を祥瑞《しょうずい》だと思って、蝦蟇の画《え》をかき、蝦蟇の彫刻をして人に贈った。これが蟾翁の号の由来である。

   その十五

 池田独美には前後三人の妻があった。安永八年に歿した妙仙《みょうせん》、寛政二年に歿した寿慶《じゅけい》、それから嘉永元年まで生存していた芳松院《ほうしょういん》緑峰《りょくほう》である。緑峰は菱谷氏《ひしたにうじ》、佐井《さい》氏に養われて独美に嫁したのが、独美の京都にいた時の事である。三人とも子はなかったらしい。
 独美が厳島から大阪に遷《うつ》った頃|妾《しょう》があって、一男二女を生んだ。男《だん》は名を善直《ぜんちょく》といったが、多病で業を継ぐことが出来なかったそうである。二女は長《ちょう》を智秀《ちしゅう》と諡《おくりな》した。寛政二年に歿している。次は知瑞《ちずい》と諡した。寛政九年に夭折している。この外に今一人独美の子があって、鹿児島に住んで、その子孫が現存しているらしいが、この家の事はまだこれを審《つまびらか》にすることが出来ない。
 独美の家は門人の一人が養子になって嗣《つ》いで、二世瑞仙と称した。これは上野国《こうずけのくに》桐生《きりゅう》の人|村岡善左衛門《むらおかぜんざえもん》常信《じょうしん》の二男である。名は晋《しん》、字《あざな》は柔行《じゅうこう》、また直卿《ちょくけい》、霧渓《むけい》と号した。躋寿館《せいじゅかん》の講座をもこの人が継承した。
 初め独美は曼公《まんこう》の遺法を尊重する余《あまり》に、これを一子相伝に止《とど》め、他人に授くることを拒んだ。然るに大阪にいた時、人が諫《いさ》めていうには、一人《いちにん》の能《よ》く救う所には限《かぎり》がある、良法があるのにこれを秘して伝えぬのは不仁であるといった。そこで独美は始て誓紙に血判をさせて弟子を取った。それから門人が次第に殖《ふ》えて、歿するまでには五百人を踰《こ》えた。二世瑞仙はその中から簡抜せられて螟蛉子《めいれいし》となったのである。
 独美の初代瑞仙は素《もと》源家《げんけ》の名閥だとはいうが、周防《すおう》の岩国から起って幕臣になり、駿河台の池田氏の宗家となった。それに業を継ぐべき子がなかったので、門下の俊才が入《い》って後《のち》を襲った。遽《にわか》に見れば、なんの怪《あやし》むべき所もない。
 しかしここに問題の人物がある。それは抽斎の痘科の師となるべき池田|京水《けいすい》である。
 京水は独美の子であったか、甥《おい》であったか不明である。向島嶺松寺に立っていた墓に刻してあった誌銘には子としてあったらしい。然るに二世瑞仙|晋《しん》の子|直温《ちょくおん》の撰んだ過去帖《かこちょう》には、独美の弟|玄俊《げんしゅん》の子だとしてある。子にもせよ甥にもせよ、独美の血族たる京水は宗家を嗣《つ》ぐことが出来ないで、自立して町医《まちい》になり、下谷《したや》徒士町《かちまち》に門戸《もんこ》を張った。当時江戸には駿河台の官医二世瑞仙と、徒士町の町医京水とが両立していたのである。
 種痘の術が普及して以来、世の人は疱瘡を恐るることを忘れている。しかし昔は人のこの病を恐るること、癆《ろう》を恐れ、癌《がん》を恐れ、癩《らい》を恐るるよりも甚だしく、その流行の盛《さかん》なるに当っては、社会は一種のパニックに襲われた。池田氏の治法が徳川政府からも全国の人民からも歓迎せられたのは当然の事である。そこで抽斎も、一般医学を蘭軒に受けた後《のち》、特に痘科を京水に学ぶことになった。丁度近時の医が細菌学や原虫学や生物化学を特修すると同じ事である。
 池田氏の曼公に受けた治痘法はどんなものであったか。従来痘は胎毒だとか、穢血《えけつ》だとか、後天《こうてん》の食毒《しどく》だとかいって、諸家は各《おのおの》その見る所に従って、諸証を攻むるに一様の方を以てしたのに、池田氏は痘を一種の異毒異気だとして、いわゆる八証四節三項を分ち、偏僻《へんぺき》の治法を斥《しりぞ》けた。即ち対症療法の完全ならんことを期したのである。

   その十六

 わたくしは抽斎の師となるべき人物を数えて京水《けいすい》に及ぶに当って、ここに京水の身上《しんしょう》に関する疑《うたがい》を記《しる》して、世の人の教《おしえ》を受けたい。
 わたくしは今これを筆に上《のぼ》するに至るまでには、文書を捜り寺院を訪《と》い、また幾多の先輩知友を煩《わずら》わして解決を求めた。しかしそれは概《おおむ》ね皆|徒事《いたずらごと》であった。就中《なかんずく》憾《うらみ》とすべきは京水の墓の失踪《しっそう》した事である。
 最初にわたくしに京水の
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