七両十二人扶持|川崎丈助《かわさきじょうすけ》の女《むすめ》を迎えたが、これは四年二月に逸《いつ》という女《むすめ》を生んで、逸が三歳で夭折《ようせつ》した翌年、七年二月十九日に離別せられた。最後に七年四月二十六日に允成の納《い》れた室《しつ》は、下総国《しもうさのくに》佐倉《さくら》の城主|堀田《ほった》相模守《さがみのかみ》正順《まさより》の臣、岩田忠次《いわたちゅうじ》の妹|縫《ぬい》で、これが抽斎の母である。結婚した時允成が三十二歳、縫が二十一歳である。
縫は享和二年に始めて須磨《すま》という女《むすめ》を生んだ。これは後文政二牛に十八歳で、留守居《るすい》年寄《としより》佐野《さの》豊前守《ぶぜんのかみ》政親《まさちか》組|飯田四郎左衛門《いいだしろうざえもん》良清《よしきよ》に嫁し、九年に二十五歳で死んだ。次いで文化二年十一月八日に生れたのが抽斎である。允成四十二歳、縫三十一歳の時の子である。これから後《のち》には文化八年|閏《じゅん》二月十四日に女《むすめ》が生れたが、これは名を命ずるに及ばずして亡くなった。感応寺《かんのうじ》の墓に曇華《どんげ》水子《すいし》と刻してあるのがこの女《むすめ》の法諡《ほうし》である。
允成《ただしげ》は寧親の侍医で、津軽藩邸に催される月並《つきなみ》講釈の教官を兼ね、経学《けいがく》と医学とを藩の子弟に授けていた。三百石十人扶持の世禄《せいろく》の外に、寛政十二年から勤料《つとめりょう》五人扶持を給せられ、文化四年に更に五人扶持を加え、八年にまた五人扶持を加えられて、とうとう三百石と二十五人扶持を受けることとなった。中《なか》二年置いて文化十一年に一粒金丹《いちりゅうきんたん》を調製することを許された。これは世に聞えた津軽家の秘方で、毎月《まいげつ》百両以上の所得になったのである。
允成は表向《おもてむき》侍医たり教官たるのみであったが、寧親の信任を蒙《こうむ》ることが厚かったので、人の敢《あえ》て言わざる事をも言うようになっていて、数《しばしば》諫《いさ》めて数《しばしば》聴《き》かれた。寧親は文化元年五月連年|蝦夷地《えぞち》の防備に任じたという廉《かど》を以て、四万八千石から一躍して七万石にせられた。いわゆる津軽家の御乗出《おんのりだし》がこれである。五年十二月には南部《なんぶ》家と共に永く東西蝦夷地を警衛することを命ぜられて、十万石に進み、従《じゅ》四位|下《げ》に叙せられた。この津軽家の政務発展の時に当って、允成が啓沃《けいよく》の功も少くなかったらしい。
允成は文政五年八月|朔《さく》に、五十九歳で致仕した。抽斎が十八歳の時である。次いで寧親も八年四月に退隠して、詩歌|俳諧《はいかい》を銷遣《しょうけん》の具とし、歌会には成島司直《なるしましちょく》などを召し、詩会には允成を召すことになっていた。允成は天保《てんぽう》二年六月からは、出羽国|亀田《かめだ》の城主|岩城《いわき》伊予守《いよのかみ》隆喜《たかひろ》に嫁した信順《のぶゆき》の姉もと姫に伺候し、同年八月からはまた信順の室|欽姫附《かねひめづき》を兼ねた。八月十五日に隠居料三人扶持を給せられることになったのは、これらのためであろう。中一年置いて四年四月朔に、隠居料二人扶持を増して、五人扶持にせられた。
允成は天保八年[#「八年」は底本では「八月」]十月二十六日に、七十四歳で歿した。寧親は四年前の天保四年六月十四日に、六十九歳で卒した。允成の妻|縫《ぬい》は、文政七年七月朔に剃髪して寿松《じゅしょう》といい、十二年六月十四日に五十五歳で亡くなった。夫に先《さきだ》つこと八年である。
その十二
抽斎は文化二年十一月八日に、神田弁慶橋に生れたと保《たもつ》さんがいう。これは母|五百《いお》の話を記憶しているのであろう。父|允成《ただしげ》は四十二歳、母|縫《ぬい》は三十一歳の時である。その生れた家はどの辺であるか。弁慶橋というのは橋の名ではなくて町名である。当時の江戸分間大絵図《えどぶんけんおおえず》というものを閲《けみ》するに、和泉橋《いずみばし》と新橋《あたらしばし》との間の柳原通《やなぎはらどおり》の少し南に寄って、西から東へ、お玉《たま》が池《いけ》、松枝町《まつえだちょう》、弁慶橋、元柳原町《もとやなぎはらちょう》、佐久間町《さくまちょう》、四間町《しけんちょう》、大和町《やまとちょう》、豊島町《としまちょう》という順序に、町名が注してある。そして和泉橋を南へ渡って、少し東へ偏《かたよ》って行く通が、東側は弁慶橋、西側は松枝町になっている。この通の東隣《ひがしどなり》の筋は、東側が元柳原町、西側が弁慶橋になっている。わたくしが富士川游《ふじかわゆう》さんに借りた津軽家の医官の宿直日記によるに、允成《ただしげ》は天明六年八月十九日に豊島町|通《どおり》横町《よこちょう》鎌倉《かまくら》横町|家主《いえぬし》伊右衛門店《いえもんたな》を借りた。この鎌倉横町というのは、前いった図を見るに、元柳原町と佐久間町との間で、北《きた》の方《かた》河岸《かし》に寄った所にある。允成がこの店《たな》を借りたのは、その年正月二十二日に従来住んでいた家が焼けたので、暫《しばら》く多紀桂山《たきけいざん》の許《もと》に寄宿していて、八月に至って移転したのである。その従来住んでいた家も、余り隔たっていぬ和泉橋附近であったことは、日記の文から推することが出来る。次に文政八年三月|晦《みそか》に、抽斎の元柳原六丁目の家が過半類焼したということが、日記に見えている。元柳原町は弁慶橋と同じ筋で、ただ東西|両側《りょうそく》が名を異にしているに過ぎない。想《おも》うに渋江|氏《うじ》は久しく和泉橋附近に住んでいて、天明に借りた鎌倉横町から、文政八年に至るまでの間に元柳原町に移ったのであろう。この元柳原町六丁目の家は、拍斎の生れた弁慶橋の家と同じであるかも知れぬが、あるいは抽斎の生れた文化二年に西側の弁慶橋にいて、その後文政八年に至るまでの間に、向側《むかいがわ》の元柳原町に移ったものと考えられぬでもない。
抽斎は小字《おさなな》を恒吉《つねきち》といった。故越中守|信寧《のぶやす》の夫人|真寿院《しんじゅいん》がこの子を愛して、当歳の時から五歳になった頃まで、殆《ほとん》ど日ごとに召し寄せて、傍《そば》で嬉戯《きぎ》するのを見て楽《たのし》んだそうである。美丈夫允成に肖《に》た可憐児《かれんじ》であったものと想われる。
志摩《しま》の稲垣氏の家世《かせい》は今|詳《つまびらか》にすることが出来ない。しかし抽斎の祖父清蔵も恐らくは相貌《そうぼう》の立派な人で、それが父允成を経由して抽斎に遺伝したものであろう。この身的遺伝と並行して、心的遺伝が存じていなくてはならない。わたくしはここに清蔵が主を諫めて去った人だという事実に注目する。次に後《のち》允成になった神童専之助を出《いだ》す清蔵の家庭が、尋常の家庭でないという推測を顧慮する。彼は意志の方面、此《これ》は智能《ちのう》の方面で、この両方面における遺伝的系統を繹《たず》ぬるに、抽斎の前途は有望であったといっても好《よ》かろう。
さてその抽斎が生れて来た境界《きょうがい》はどうであるか。允成の庭《にわ》の訓《おしえ》が信頼するに足るものであったことは、言を須《ま》たぬであろう。オロスコピイは人の生れた時の星象《せいしょう》を観測する。わたくしは当時の社会にどういう人物がいたかと問うて、ここに学問芸術界の列宿《れっしゅく》を数えて見たい。しかし観察が徒《いたずら》に汎《ひろ》きに失せぬために、わたくしは他年抽斎が直接に交通すべき人物に限って観察することとしたい。即ち抽斎の師となり、また年上の友となる人物である。抽斎から見ての大己《たいこ》である。
抽斎の経学の師には、先ず市野迷庵《いちのめいあん》がある。次は狩谷※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎《かりやえきさい》である。医学の師には伊沢蘭軒《いさわらんけん》がある。次は抽斎が特に痘科を学んだ池田京水《いけだけいすい》である。それから抽斎が交《まじわ》った年長者は随分多い。儒者または国学者には安積艮斎《あさかごんさい》、小島成斎《こじませいさい》、岡本况斎《おかもときょうさい》、海保漁村《かいほぎょそん》、医家には多紀《たき》の本末《ほんばつ》両家、就中《なかんずく》※[#「くさかんむり/頤のへん」、第4水準2−86−13]庭《さいてい》、伊沢蘭軒の長子|榛軒《しんけん》がいる。それから芸術家|及《および》芸術批評家に谷文晁《たにぶんちょう》、長島五郎作《ながしまごろさく》、石塚重兵衛《いしづかじゅうべえ》がいる。これらの人は皆社会の諸方面にいて、抽斎の世に出《い》づるを待ち受けていたようなものである。
その十三
他年抽斎の師たり、年長の友たるべき人々の中《うち》には、現に普《あまね》く世に知れわたっているものが少くない。それゆえわたくしはここに一々その伝記を挿《さしはさ》もうとは思わない。ただ抽斎の誕生を語るに当って、これをしてその天職を尽さしむるに与《あずか》って力ある長者のルヴュウをして見たいというに過ぎない。
市野迷庵、名を光彦《こうげん》、字を俊卿《しゅんけい》また子邦《しほう》といい、初め※[#「竹かんむり/員」、第4水準2−83−63]窓《うんそう》、後迷庵と号した。その他|酔堂《すいどう》、不忍池漁《ふにんちぎょ》等の別号がある。抽斎の父允成が酔堂説《すいどうのせつ》を作ったのが、『容安室文稿《ようあんしつぶんこう》』に出ている。通称は三右衛門《さんえもん》である。六|世《せい》の祖|重光《ちょうこう》が伊勢国|白子《しろこ》から江戸に出て、神田佐久間町に質店《しちみせ》を開き、屋号を三河屋《みかわや》といった。当時の店は弁慶橋であった。迷庵の父|光紀《こうき》が、香月氏《かづきうじ》を娶《めと》って迷庵を生せたのは明和二年二月十日であるから、抽斎の生れた時、迷庵はもう四十一歳になっていた。
迷庵は考証学者である。即ち経籍の古版本《こはんぼん》、古抄本を捜《さぐ》り討《もと》めて、そのテクストを閲《けみ》し、比較考勘する学派、クリチックをする学派である。この学は源を水戸《みと》の吉田篁※[#「土へん+敦」、第3水準1−15−63]《よしだこうとん》に発し、※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎がその後《のち》を承《う》けて発展させた。篁※[#「土へん+敦」、第3水準1−15−63]は抽斎の生れる七年前に歿している。迷庵が※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎らと共に研究した果実が、後に至って成熟して抽斎らの『訪古志《ほうこし》』となったのである。この人が晩年に『老子《ろうし》』を好んだので、抽斎も同嗜《どうし》の人となった。
狩谷※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎、名は望之《ぼうし》、字《あざな》は卿雲《けいうん》、※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎はその号である。通称を三右衛門《さんえもん》という。家は湯島《ゆしま》にあった。今の一丁目である。※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎の家は津軽の用達《ようたし》で、津軽屋と称し、※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎は津軽家の禄千石を食《は》み、目見諸士《めみえしょし》の末席《ばっせき》に列せられていた。先祖は参河国《みかわのくに》苅屋《かりや》の人で、江戸に移ってから狩谷氏を称した。しかし※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎は狩谷|保古《ほうこ》の代にこの家に養子に来たもので、実父は高橋高敏《たかはしこうびん》、母は佐藤氏である。安永四年の生《うまれ》で、抽斎の母|縫《ぬい》と同年であったらしい。果してそうなら、抽斎の生れた時は三十一歳で、迷庵よりは十《とお》少《わか》かったのだろう。抽斎の※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎に師事したのは二十余
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