り紅白|縮緬《ちりめん》の天幕、杵勝名取《きねかつなとり》男女中より縹色絹《はないろぎぬ》の後幕、勝久門下名取女|中《じゅう》より中形《ちゅうがた》縮緬の大額《おおがく》、親密連《しんみつれん》女名取より茶緞子《ちゃどんす》丸帯の掛地《かけじ》、木場贔屓《きばひいき》中より白縮緬の水引が贈られた。役者はおもいおもいの意匠を凝《こら》したびらを寄せた。縁故のある華族の諸家《しょけ》は皆金品を遺《おく》って、中には老女を遣《つかわ》したものもあった。勝久が三十一歳の時の事である。

   その百十六

 勝久が本所松井町福島某の地所に、今の居宅を構えた時に、師匠勝三郎は喜んで、歌を詠じて自ら書し、表装して貽《おく》った。勝久はこの歌に本づいて歌曲「松《まつ》の栄《さかえ》」を作り、両国|井生村楼《いぶむらろう》で新曲開きをした。勝三郎を始として、杵屋一派の名流が集まった。曲は奉書摺《ほうしょずり》の本に為立《した》てて客《かく》に頒《わか》たれた。緒余《しょよ》に『四つの海』を著した抽斎が好尚の一面は、図らずもその女《じょ》陸《くが》に藉《よ》って此《かく》の如き発展を遂げたのである。これは明治二十七年十二月で、勝久が四十八歳の時であった。
 勝三郎は尋《つい》で明治二十九年二月五日に歿した。年は七十七であった。法諡《ほうし》を花菱院照誉東成信士《かりょういんしょうよとうせいしんし》という。東成はその諱《いみな》である。墓は浅草|蔵前《くらまえ》西福寺《さいふくじ》内|真行院《しんぎょういん》にある。原《たず》ぬるに長唄杵屋の一派は俳優中村勘五郎から出て、その宗家は世《よよ》喜三郎また六左衛門と称し現に日本橋|坂本町《さかもとちょう》十八番地にあって名跡《みょうせき》を伝えている。いわゆる植木店《うえきだな》の家元《いえもと》である。三世喜三郎の三男杵屋六三郎が分派をなし、その門に初代佐吉があり、初代佐吉の門に和吉《わきち》があり、和吉の後《のち》を初代勝五郎が襲《つ》ぎ、初代勝五郎の後を初代勝三郎が襲いだ。この勝三郎は終生名を更《あらた》めずにいて、勝五郎の称は門人をして襲がしめた。次が二世勝三郎東成で、小字《おさなな》を小三郎《こさぶろう》といった。即ち勝久の師匠である。
 二世勝三郎には子女|各《おのおの》一人《いちにん》があって、姉をふさといい、弟を金次郎《きんじろう》といった。金次郎は「己《おれ》は芸人なんぞにはならない」といって、学校にばかり通っていた。二世勝三郎は終《おわり》に臨んで子らに遺言《ゆいごん》し、勝久を小母《おば》と呼んで、後事《こうじ》を相談するが好《よ》いといったそうである。
 二世勝三郎の馬喰町の家は、長女ふさに壻を迎えて継がせることになった。壻は新宿《しんじゅく》の岩松《いわまつ》というもので、養父の小字《おさなな》小三郎を襲ぎ、中村楼で名弘《なびろめ》の会を催した。いまだ幾《いくば》くならぬに、小三郎は養父の小字を名告《なの》ることを屑《いさぎよ》しとせず、三世勝三郎たらんことを欲した。しかし先代勝三郎の門人は杵勝同窓会を組織していて、技芸の小三郎より優れているものが多い。それゆえ襲名の事は輒《たやす》く認容せられなかった。小三郎は遂に葛藤《かっとう》を生じて離縁せられた。
 是《ここ》において二世勝三郎の長男金次郎は、父の遺業を継がなくてはならぬことになった。金次郎は親戚《しんせき》と父の門人らとに強要せられて退学し、好まぬ三味線を手に取って、杵勝分派諸老輩の鞭策《べんさく》の下に、いやいやながら腕を磨《みが》いた。
 金次郎は遂に三世勝三郎となった。初めこの勝三郎は学校教育が累《るい》をなし、目に丁字《ていじ》なき儕輩《せいはい》の忌む所となって、杵勝同窓会幹事の一人《いちにん》たる勝久の如きは、前途のために手に汗を握ること数《しばしば》であったが、固《もと》より些《ちと》の学問が技芸を妨げるはずはないので、次第に家元たる声価も定まり、羽翼も成った。
 明治三十六年勝久が五十七歳になった時の事である。三世勝三郎が鎌倉に病臥《びょうが》しているので、勝久は勝秀、勝きみと共に、二月二十五日に見舞いに往った。※[#「にんべん+就」、第3水準1−14−40]居《しゅうきょ》は海光山《かいこうざん》長谷寺《ちょうこくじ》の座敷である。勝三郎は病がとかく佳候《かこう》を呈せなかったが、当時なお杖に扶《たす》けられて寺門《じもん》を出《い》で、勝久らに近傍の故蹟を見せることが出来た。勝久は遊覧の記を作って、病牀《びょうしょう》の慰草《なぐさみぐさ》にもといって遣《おく》った。雑誌『道楽世界』に、杵屋勝久は学者だと書いたのは、この頃の事である。三月三日に勝三郎は病のいまだ※[#「やまいだれ+差」、第4水準2−81−66]《い》えざるに東京に還った。

   その百十七

 三世勝三郎の病は東京に還ってからも癒えなかった。当時勝三郎は東京座|頭取《とうどり》であったので、高足弟子《こうそくていし》たる浅草|森田町《もりたちょう》の勝四郎をして主としてその事に当らしめた。勝四郎は即ち今の勝五郎である。然るに勝三郎は東京座における勝四郎の勤《つとめ》ぶりに慊《あきたら》なかった。そして病のために気短《きみじか》になっている勝三郎と勝四郎との間に、次第に繕いがたい釁隙《きんげき》を生じた。
 五月に至って勝三郎は房州へ転地することを思い立ったが、出発に臨んで自分の去った後《のち》における杵勝分派の前途を気遣った。そして分派の永続を保証すべき男女名取の盟約書を作らせようとした。勝久の世話をしている女名取の間には、これを作るに何の故障もなかった。しかし勝四郎を領袖《りょうしゅう》としている男名取らは、先ず師匠の怒《いかり》が解けて、師匠と勝四郎との交《まじわり》が昔の如き和熟を見るに至るまでは、盟約書に調印することは出来ぬといった。この時勝久は病める師匠の心を安《やす》んずるには、男女名取総員の盟約を完成するに若《し》くはないと思って、師家と男名取らとの間に往来して調停に努力した。
 しかし勝三郎は遂に釈然たるに至らなかった。六月十六日に勝久が馬喰町の家元を訪《と》うて、重ねて勝四郎のために請う所があったとき、勝三郎は涙を流して怒《いか》り、「小母《おば》さんはどこまでこの病人に忤《さから》う気ですか」といった。勝久は此《ここ》に至って復《また》奈何《いかん》ともすることが出来なかった。
 六月二十五日の朝、勝三郎は霊岸島《れいがんじま》から舟に乗って房州へ立った。妻みつが同行した。即ち杵勝分派のものが女師匠と呼んでいる人である。見送の人々は勝三郎の姉ふさ、いそ、てる、勝久、勝ふみ、藤二郎《とうじろう》、それに師匠の家にいる兼《かね》さんという男、上総屋《かずさや》の親方、以上八人であった。勝三郎の姉ふさは後に、日本橋浜町一丁目に二世勝三郎の建てた隠居所に住んで、独身で暮しているので、杵勝分派に浜町の師匠と呼ばれている人である。
 この桟橋の別《わかれ》には何となく落寞《らくばく》の感があった。病み衰えた勝三郎は終《つい》に男名取総員の和熟を見るに及ばずして東京を去った。そしてそれが再び帰らぬ旅路であった。
 勝久は家元を送って四日の後に病に臥《ふ》した。七月八日には女師匠が房州から帰って、勝久の病を問うた。十二日に勝久は馬喰町と浜町とへ留守見舞の使を遣《や》って、勝三郎の房州から鎌倉へ遷《うつ》ったことを聞いた。
 九月十一日は小雨《こさめ》の降る日であった。鎌倉から勝三郎の病が革《すみやか》だと報じて来た。勝久は腰部の拘攣《こうれん》のために、寝がえりだに出来ず、便所に往くにも、人に抱かれて往っていた。そこへこの報が来たので、勝久はしばらく戦慄《せんりつ》して已《や》まなかった。しかし勝久は自ら励まして常に親しくしている勝ふみを呼びに遣った。介抱かたがた同行することを求めたのであった。二人は新橋から汽車に乗って、鎌倉へ往った。勝三郎はこの夕《ゆうべ》に世を去った。年は三十八であった。法諡《ほうし》を蓮生院薫誉智才信士《れんしょういんくんよちさいしんし》という。

   その百十八

 九月十二日に勝久は三世勝二郎の柩《ひつぎ》を荼※[#「田+比」、第3水準1−86−44]所《だびしょ》まで見送って、そこから車を停車場へ駆り、夜東京に還った。勝三郎が歿した後《のち》に、杵勝分派の団結を維持して行くには、一刻も早く除かなくてはならぬ障礙《しょうがい》がある。それは勝三郎の生前《しょうぜん》に、勝久らが百方調停したにもかかわらず、宥《ゆる》されずにしまった高足弟子《こうそくていし》勝四郎の勘気である。勝久は鎌倉にある間も、東京へ帰る途上でも、須臾《しゅゆ》もこれを忘れることが出来なかった。
 十三日の昧爽《まいそう》に、勝久は森田町の勝四郎が家へ手紙を遣った。「定めし御聞込《おんききこみ》の事とは存じ候《そうら》へども、杵屋|御《おん》家元様は御《ご》死去|被遊候《あそばされそろ》。夫《それ》に付《つき》私共は今日《こんにち》午後四時|御《ご》同所に相寄候事《あいよりそろこと》に御坐候。此《この》際|御《おん》前様御心底は奈何《いかが》に候|哉《や》。私存じ候には、同刻御自身の思召《おぼしめし》にて馬喰町へ御出被成候方宜敷《おんいでなされそろかたよろしく》候様存じ候。田原町《たわらちょう》へ一寸《ちょっと》御立寄被成候《おんたちよりなされそうろう》て御出被成度《おんいでなされたく》存じ候。さ候はゞ及ばずながら奈何様《いかよう》にも御《ご》都合宜敷様|可致候《いたすべくそろ》。先《まず》は右|申入《もうしいれ》候。」田原町とは勝四郎に亜《つ》ぐ二番弟子勝治郎の家をいったのである。勝治郎は昨今病のために引き籠《こも》って、杵勝同窓会をも脱《ぬ》けている。
 勝四郎の返事には、好意はありがたいが、何分これまでの行懸《ゆきがかり》上単身では出向かれぬといって来た。そこで十造、勝助の二人《ふたり》が森田町へ迎えに往《ゆ》くことになった。
 馬喰町の家では、この日|通夜《つうや》のために、亡人《なきひと》の親戚を始《はじめ》として、男女の名取が皆集まっていた。勝久は浜町の師匠と女師匠とに請うに、亡人に代って勝四郎を免《ゆる》すことを以てした。浜町の師匠は亡人の姉ふさ、女師匠は三十六歳で未亡人となった亡人の妻みつである。二人の女は許諾した。そこへ勝四郎は出向いて来て、勝三郎の木位《もくい》を拝し、綫香《せんこう》を手向《たむ》けた。勝四郎は木位の前を退いて男女の名取に挨拶《あいさつ》した。葛藤は此《ここ》に全く解けた。これが明治三十六年勝久が五十七歳の時の事で、勝久は始終病を力《つと》めてこの調停の衝に当ったのである。勝久が病の本復したのはこの年の十二月である。
 杵勝同窓会はこれより後|※[#「目+癸」、第4水準2−82−11]乖《けいかい》の根を絶って、男名取中からは名を勝五郎と更《あらた》めた勝四郎が推されて幹事となり、女名取中からは勝久が推されて同じく幹事となっている。勝四郎の名は今飯田町住の五番弟子が襲《つ》いでいる。一番弟子勝四郎|改《あらため》勝五郎、二番勝治郎、三番|勝松《かつまつ》改勝右衛門、四番|勝吉《かつきち》改勝太郎、五番勝四郎、六番勝之助改和吉である。
 二世勝三郎の花菱院《かりょういん》が三年忌には、男女名取が梵鐘《ぼんしょう》一箇を西福寺に寄附した。七年忌には金百円、幕|一帳《ひとはり》男女名取中、葡萄鼠縮緬幕《ぶどうねずみちりめんまく》女名取中、大額|並《ならびに》黒絽夢想袷羽織《くろろむそうあわせばおり》勝久門弟中、十三年忌が三世の七年忌を繰り上げて併《あわ》せ修せられたときには、木魚《もくぎょ》一対《いっつい》墓前|花立《はなたて》並綫香立男女名取中、十七年忌には蓮華形皿《れんげがたさら》十三枚男女名取中の寄附があった。また三世勝三郎の蓮生院《れんしょういん》が三年忌には経箱《きょ
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