稽古《けいこ》に通ったことであろう。
 母五百も声が好《よ》かったが、陸はそれに似た美声だといって、勝三郎が褒《ほ》めた。節も好く記《おぼ》えた。三味線《さみせん》は「宵《よい》は待ち」を弾《ひ》く時、早く既に自ら調子を合せることが出来、めりやす「黒髪」位に至ると、師匠に連れられて、所々《しょしょ》の大浚《おおざらえ》に往った。
 勝三郎は陸を教えるに、特別に骨を折った。月六斎《つきろくさい》と日を期して、勝三郎が喜代蔵《きよぞう》、辰蔵《たつぞう》二人の弟子《でし》を伴って、お玉が池の渋江の邸《やしき》に出向くと、その日には陸《くが》も里親の許《もと》から帰って待ち受けていた。陸の浚《さらえ》が畢《おわ》ると、二番位演奏があって、その上で酒飯《しゅはん》が出た。料理は必ず青柳《あおやぎ》から為出《しだ》した。嘉永四年に渋江氏が本所台所町に移ってからも、この出稽古は継続せられた。

   その百十三

 渋江氏が一旦《いったん》弘前に徙《うつ》って、その後《のち》東京と改まった江戸に再び還《かえ》った時、陸《くが》は本所緑町に砂糖店《さとうみせ》を開いた。これは初め商売を始めようと思って土著《どちゃく》したのではなく、唯|稲葉《いなば》という家の門の片隅に空地《くうち》があったので、そこへ小家《こいえ》を建てて住んだのであった。さてこの家に住んでから、稲葉氏と親しく交わることになり、その勧奨に由《よ》って砂糖店をば開いたのである。また砂糖店を閉じた後《のち》に、長唄の師匠として自立するに至ったのも、同じ稲葉氏が援助したのである。
 本所には三百石|取《どり》以上の旗本で、稲葉氏を称したものが四軒ばかりあったから、親しくその子孫について質《ただ》さなくては、どの家かわからぬが、陸を庇護《ひご》した稲葉氏には、当時四十何歳の未亡人の下《もと》に、一旦人に嫁して帰った家附《いえつき》の女《むすめ》で四十歳位のが一人、松さん、駒《こま》さんの兄弟があった。この松さんは今|千秋《せんしゅう》と号して書家になっているそうである。
 陸が小家に移った当座、稲葉氏の母と娘とは、湯屋に往くにも陸をさそって往き、母が背中を洗って遣《や》れば、娘が手を洗って遣るというようにした。髪をも二人で毎日種々の髷《まげ》に結《ゆ》って遣った。
 さて稲葉の未亡人のいうには、若いものが坐食していては悪い、心安い砂糖問屋《さとうどいや》があるから、砂糖店を出したが好かろう、医者の家に生れて、陸は秤目《はかりめ》を知っているから丁度好いということであった。砂糖店は開かれた。そして繁昌《はんじょう》した。品《しな》も好く、秤《はかり》も好いと評判せられて、客は遠方から来た。汁粉屋が買いに来る。煮締屋《にしめや》が買いに来る。小松川《こまつがわ》あたりからわざわざ来るものさえあった。
 或日貴婦人が女中大勢を連れて店に来た。そして氷砂糖、金米糠《コンペイトー》などを買って、陸に言った。「士族の女《むすめ》で健気《けなげ》にも商売を始めたものがあるという噂《うわさ》を聞いて、わたしはわざわざ買いに来ました。どうぞ中途で罷《や》めないで、辛棒《しんぼう》をし徹《とお》して、人の手本になって下さい」といった。後に聞けば、藤堂家の夫人だそうであった。藤堂家の下屋敷は両国橋詰にあって、当時の主人は高猷《たかゆき》、夫人は一族|高※[#「山/松」、第3水準1−47−81]《たかたけ》の女《じょ》であったはずである。
 或日また五百《いお》と保とが寄席《よせ》に往った。心打《しんうち》は円朝《えんちょう》であったが、話の本題に入《い》る前に、こういう事を言った。「この頃緑町では、御大家《ごたいけ》のお嬢様がお砂糖屋をお始《はじめ》になって、殊《こと》の外《ほか》御繁昌だと申すことでございます。時節柄結構なお思い立《たち》で、誰《たれ》もそうありたい事と存じます」といった。話の中《うち》にいわゆる心学《しんがく》を説いた円朝の面目《めんぼく》が窺《うかが》われる。五百は聴《き》いて感慨に堪えなかったそうである。
 この砂糖店は幸か不幸か、繁昌の最中《もなか》に閉じられて、陸は世間の同情に酬《むく》いることを得なかった。家族関係の上に除きがたい障礙《しょうがい》が生じたためである。
 商業を廃して間暇《かんか》を得た陸の許《もと》へ、稲葉の未亡人は遊びに来て、談は偶《たまたま》長唄の事に及んだ。長唄は未亡人がかつて稽古したことがある。陸には飯よりも好《すき》な道である。一しょに浚《さら》って見ようではないかということになった。いまだ一段を終らぬに、世話好の未亡人は驚歎しつつこういった。「あなたは素人《しろうと》じゃないではありませんか。是非師匠におなりなさい。わたしが一番に弟子入をします。」

   その百十四

 稲葉の未亡人の詞《ことば》を聞いて、陸の意はやや動いた。芸人になるということを憚《はばか》ってはいるが、どうにかして生計を営むものとすると、自分の好む芸を以てしたいのであった。陸は母五百の許《もと》に往って相談した。五百は思《おもい》の外《ほか》容易《たやす》く許した。
 陸は師匠杵屋勝三郎の勝の字を請い受けて勝久と称し、公《おおやけ》に稟《もう》して鑑札を下付せられた。その時本所亀沢町左官庄兵衛の店《たな》に、似合わしい一戸が明いていたので、勝久はそれを借りて看板を懸けた。二十七歳になった明治六年の事である。
 この亀沢町の家の隣には、吉野《よしの》という象牙《ぞうげ》職の老夫婦が住んでいた。主人《あるじ》は町内の若《わか》い衆頭《しゅがしら》で、世馴《よな》れた、侠気《きょうき》のある人であったから、女房と共に勝久の身の上を引き受けて世話をした。「まだ町住いの事は御存じないのだから、失礼ながらわたしたち夫婦でお指図《さしず》をいたして上げます」といったのである。夫婦は朝表口の揚戸《あげど》を上げてくれる。晩にまた卸してくれる。何から何まで面倒を見てくれたのである。
 吉野の家には二人の女《むすめ》があって、姉をふくといい、妹をかねといった。老夫婦は即時にこの姉妹を入門させた。おかねさんは今日本橋|大坂町《おおさかまち》十三番地に住む水野某の妻で、子供をも勝久の弟子にしている。
 吉野は勝久の事を町住いに馴れぬといった。勝久はかつて砂糖店を出していたことはあっても、今いわゆる愛敬《あいきょう》商売の師匠となって見ると、自分の物馴れぬことの甚しさに気附かずにはいられなかった。これまで自分を「お陸さん」と呼んだ人が、忽《たちま》ち「お師匠さん」と呼ぶ。それを聞くごとにぎくりとして、理性は呼ぶ人の詞《ことば》の妥当なるを認めながら、感情はその人を意地悪のように思う。砂糖屋でいた頃も、八百屋《やおや》、肴屋《さかなや》にお前と呼ぶことを遠慮したが、当時はまだその辞《ことば》を紆曲《うきょく》にして直《ただち》に相手を斥《さ》して呼ぶことを避けていた。今はあらゆる職業の人に交わって、誰をも檀那《だんな》といい、お上《かみ》さんといわなくてはならない。それがどうも口に出憎《でにく》いのであった。或時吉野の主人が「好く気を附けて、人に高ぶるなんぞといわれないようになさいよ」と忠告すると、勝久は急所を刺されたように感じたそうである。
 しかし勝久の業は予期したよりも繁昌した。いまだ幾ばくもあらぬに、弟子の数《かず》は八十人を踰《こ》えた。それに上流の家々に招かれることが漸《ようや》く多く、後には殆《ほとん》ど毎日のように、昼の稽古を終ってから、諸方の邸へ車を馳《は》せることになった。
 最も数《しばしば》往ったのはほど近い藤堂家である。この邸では家族の人々の誕生日、その外種々の祝日《いわいび》に、必ず勝久を呼ぶことになっている。
 藤堂家に次いでは、細川、津軽、稲葉、前田、伊達、牧野、小笠原、黒田、本多の諸家で、勝久は贔屓《ひいき》になっている。

   その百十五

 細川家に勝久の招かれたのは、相弟子《あいでし》勝秀《かつひで》が紹介したのである。勝秀はかつて肥後国熊本までもこの家の人々に伴われて往ったことがあるそうである。勝久の初《はじめ》て招かれたのは今戸《いまど》の別邸で、当日は立三味線《たてさみせん》が勝秀、外に脇二人《わきににん》、立唄《たてうた》が勝久、外に脇唄二人、その他|鳴物《なりもの》連中で、悉《ことごと》く女芸人であった。番組は「勧進帳《かんじんちょう》」、「吉原雀《よしわらすずめ》」、「英執着獅子《はなぶさしゅうじゃくじし》」で、末《すえ》に好《このみ》として「石橋《しゃっきょう》」を演じた。
 細川家の当主は慶順《よしゆき》であっただろう。勝久が部屋へ下《さが》っていると、そこへ津軽侯が来て、「渋江の女《むすめ》の陸《くが》がいるということだから逢いに来たよ」といった。連《つれ》の女らは皆驚いた。津軽|承昭《つぐてる》は主人慶順の弟であるから、その日の客になって、来ていたのであろう。
 長唄が畢《おわ》ってから、主客打交っての能があって、女芸人らは陪観を許された。津軽侯は「船弁慶《ふなべんけい》」を舞った。勝久を細川家に介致《かいち》した勝秀は、今は亡人《なきひと》である。
 津軽家へは細川別邸で主公に謁見したのが縁となって、渋江陸としてしばしば召されることになった。いつも独《ひとり》往って弾きもし歌いもすることになっている。老女|歌野《うたの》、お部屋おたつの人々が馴染《なじみ》になって、陸を引き廻してくれるのである。
 稲葉家へは師匠勝三郎が存命中に初て連れて往った。その邸は青山だというから、豊後国《ぶんごのくに》臼杵《うすき》の稲葉家で、当時の主公|久通《ひさみち》に麻布|土器町《かわらけちょう》の下屋敷へ招かれたのであろう。連中は男女交りであった。立三味線は勝三郎、脇勝秀、立唄《たてうた》は坂田仙八《さかたせんぱち》、脇勝久で、皆稲葉家の名指《なざし》であった。仙人は亡人《なきひと》で、今の勝五郎、前名勝四郎の父である。番組は「鶴亀《つるかめ》」、「初時雨《はつしぐれ》」、「喜撰《きせん》」で、末に好《このみ》として勝三郎と仙八とが「狸囃《たぬきばやし》」を演じた。
 演奏が畢《おわ》ってから、勝三郎らは花園を観《み》ることを許された。園《その》は太《はなは》だ広く、珍奇な花卉《かき》が多かった。園を過ぎて菜圃《さいほ》に入《い》ると、その傍《かたわら》に竹藪《たけやぶ》があって、筍《たけのこ》が叢《むらが》り生じていた。主公が芸人らに、「お前たちが自分で抜いただけは、何本でも持って帰って好《い》いから勝手に抜け」といった。男女の芸人が争って抜いた。中には筍が抽《ぬ》けると共に、尻餅《しりもち》を擣《つ》くものもあった。主公はこれを見て興に入《い》った。筍の周囲の土は、予《あらかじ》め掘り起して、鬆《ゆる》めた後《のち》にまた掻《か》き寄せてあったそうである。それでも芸人らは容易《たやす》く抜くことを得なかった。家苞《いえづと》には筍を多く賜わった。抜かぬ人もその数には洩《も》れなかった。
 前田家、伊達家、牧野家、小笠原家、黒田家、本多家へも次第に呼ばれることになった。初て往った頃は、前田家が宰相|慶寧《よしやす》、伊達家が亀三郎、牧野家が金丸《かなまる》、小笠原家が豊千代丸《とよちよまる》、黒田家が少将|慶賛《よしすけ》、本多家が主膳正《しゅぜんのかみ》康穣《やすしげ》の時であっただろう。しかしわたくしは維新後における華冑《かちゅう》家世《かせい》の事に精《くわ》しくないから、もし誤謬《ごびゅう》があったら正してもらいたい。
 勝久は看板を懸けてから四年目、明治十年四月三日に、両国中村楼で名弘《なびろ》めの大浚《おおざらい》を催した。浚場《さらいば》の間口《まぐち》の天幕は深川の五本松門弟|中《じゅう》、後幕《うしろまく》は魚河岸問屋《うおがしどいや》今和《いまわ》と緑町門弟中、水引《みずひき》は牧野家であった。その外家元門弟中よ
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