も見えぬので、保は多少の心構《こころがまえ》をしてその日を待った。静岡の市中ではこの事を聞き伝えて種々の噂《うわさ》が立った。さてその日になると、早朝に前田五門《まえだごもん》が保の家に来て助力《じょりき》をしようと申し込んだ。五門は本《もと》五左衛門《ござえもん》と称して、世禄《せいろく》五百七十二石を食《は》み、下谷《したや》新橋脇《あたらしばしわき》に住んでいた旧幕臣である。明治十五年に保が三河国|国府《こふ》を去って入京しようとした時、五門は懇親会において保と相識になった。初め函右日報《かんゆうにっぽう》社主で、今『大務《たいむ》新聞』顧問になっている。保は五門と倶《とも》に終日匿名の敵を待ったが、敵は遂に来なかった。五門は後明治三十八年二月二十三日に歿した。天保六年の生であるから、年を享《う》くること七十一であった。
その百十
抽斎歿後の第三十一年は明治二十二年である。一月八日に保は東京博文館の求《もとめ》に応じて履歴書、写真並に文稿を寄示した。これが保のこの書肆《しょし》のために書を著《あらわ》すに至った端緒《たんちょ》である。交渉は漸《ようや》く歩を進めて、保は次第に暁鐘新報社に遠《とおざ》かり、博文館に近《ちかづ》いた。そして十二月二十七日に新報社に告ぐるに、年末を待って主筆を辞することを以てした。然るに新報社は保に退社後なお社説を草《そう》せんことを請うた。
脩の嫡男|終吉《しゅうきち》がこの年十二月一日に鷹匠町二丁目の渋江塾に生れた。即ち今の図案家の渋江終吉さんである。
抽斎歿後の第三十二年は明治二十三年である。保は三月三日に静岡から入京して、麹町|有楽町《ゆうらくちょう》二丁目二番地|竹《たけ》の舎《や》に寄寓《きぐう》した。静岡を去るに臨んで、渋江塾を閉じ、英学校、英華《えいか》学校、文武館三校の教職を辞した。ただ『暁鐘新報』の社説は東京において草することを約した。入京後三月二十六日から博文館のためにする著作翻訳の稿を起した。七月十八日に保は神田《かんだ》仲猿楽町《なかさるがくちょう》五番地|豊田春賀《とよだしゅんが》の許《もと》に転寓した。
保の家には長女福が一月三十日に生れ、二月十七日に夭《よう》した。また七月十一日に長男三吉が三歳にして歿した。感応寺の墓に刻してある智運童子《ちうんどうじ》はこの三吉である。
脩はこの年五月二十九日に単身入京して、六月に飯田町《いいだまち》補習学会|及《および》神田猿楽町|有終《ゆうしゅう》学校の英語教師となった。妻子は七月に至って入京した。十二月に脩は鉄道庁第二部傭員となって、遠江国|磐田郡《いわたごおり》袋井《ふくろい》駅に勤務することとなり、また家を挙げて京を去った。
明治二十四年には保は新居を神田仲猿楽町五番地に卜《ぼく》して、七月十七日に起工し、十月一日にこれを落《らく》した。脩は駿河国|駿東郡《すんとうごおり》佐野《さの》駅の駅長助役に転じた。抽斎歿後の第三十三年である。
二十五年には保の次男|繁次《しげじ》が二月十八日に生れ、九月二十三日に夭した。感応寺の墓に示教《しきょう》童子と刻してある。脩は七月に鉄道庁に解傭《かいよう》を請うて入京し、芝|愛宕下町《あたごしたちょう》に住んで、京橋|西紺屋町《にしこんやちょう》秀英舎の漢字校正係になった。脩の次男|行晴《ゆきはる》が生れた。この年は抽斎歿後の第三十四年である。
二十六年には保の次女冬が十二月二十一日に生れた。脩がこの年から俳句を作ることを始めた。「皮足袋《かわたび》の四十に足を踏込みぬ」の句がある。二十七年には脩の次男|行晴《ゆきはる》が四月十三日に三歳にして歿した。陸《くが》が十二月に本所|松井町《まついちょう》三丁目四番地福島某の地所に新築した。即ち今の居宅《きょたく》である。長唄の師匠としてのこの人の経歴は、一たび優《ゆたか》のために頓挫《とんざ》したが、その後《ご》は継続して今日《こんにち》に至っている。なお下方に詳記するであろう。二十八年には保の三男純吉が七月十三日に生れた。二十九年には脩が一月に秀英舎|市《いち》が谷《や》工場の欧文校正係に転じて、牛込《うしごめ》二十騎町《にじっきちょう》に移った。この月十二日に脩の三男忠三さんが生れた。三十年には保が九月に根本羽嶽《ねもとうがく》の門に入《い》って易を問うことを始めた。長井金風《ながいきんぷう》さんの言《こと》に拠《よ》るに、羽嶽の師は野上陳令《のがみちんれい》、陳令の師は山本|北山《ほくざん》だそうである。栗本|鋤雲《じょうん》が三月六日に七十六歳で歿した。海保漁村の妾《しょう》が歿した。三十一年には保が八月三十日に羽嶽の義道館の講師になり、十二月十七日にその評議員になった。脩の長女花が十二月に生れた。島田|篁村《こうそん》が八月二十七日に六十一歳で歿した。抽斎歿後の第三十五年|乃至《ないし》第四十年である。
その百十一
わたくしは此《ここ》に前記を続《つ》いで抽斎歿後第四十一年以下の事を挙げる。明治三十三年には五月二日に保の三女|乙女《おとめ》さんが生れた。三十四年には脩が吟月《ぎんげつ》と号した。俳諧《はいかい》の師二世|桂《かつら》の本《もと》琴糸女《きんしじょ》の授くる所の号である。山内|水木《みき》が一月二十六日に歿した。年四十九であった。福沢諭吉が二月三日に六十八歳で歿した。博文館主|大橋佐平《おおはしさへい》が十一月三日に六十七歳で歿した。三十五年には脩が十月に秀英舎を退いて京橋|宗十郎町《そうじゅうろうちょう》の国文社に入《い》り、校正係になった。修の四男|末男《すえお》さんが十二月五日に生れた。三十六年には脩が九月に静岡に往って、安西《あんざい》一丁目|南裏《みなみうら》に渋江塾を再興した。県立静岡中学校長|川田正澂《かわだせいちょう》の勧《すすめ》に従って、中学生のために温習の便宜を謀《はか》ったのである。脩の長女花が三月十五日に六歳で歿した。三十七年には保が五月十五日に神田|三崎町《みさきちょう》一番地に移った。三十八年には保が七月十三日に荏原郡《えばらごおり》品川町《しながわちょう》南品川百五十九番地に移った。脩が十二月に静岡の渋江塾を閉じた。川田が宮城県第一中学校長に転じて、静岡中学校の規則が変更せられ、渋江塾は存立《ぞんりつ》の必要なきに至ったのである。伊沢柏軒の嗣子|磐《いわお》が十一月二十四日に歿した。鉄三郎が徳安《とくあん》と改め、維新後にまた磐と改めたのである。磐の嗣子|信治《しんじ》さんは今|赤坂《あかさか》氷川町《ひかわちょう》の姉壻|清水夏雲《しみずかうん》さんの許《もと》にいる。三十九年には脩が入京して小石川《こいしかわ》久堅町《ひさかたちょう》博文館印刷所の校正係になった。根本羽嶽が十月三日に八十五歳で歿した。四十年には保の四女|紅葉《もみじ》が十月二十二日に生れて、二十八日に夭した。これが抽斎歿後の第四十八年に至るまでの事略である。
抽斎歿後の第四十九年は明治四十一年である。四月十二日午後十時に脩が歿した。脩はこの月四日降雪の日に感冒した。しかし五日までは博文館印刷所の業を廃せなかった。六日に至って咳嗽《がいそう》甚しく、発熱して就蓐《じゅじょく》し、終《つい》に加答児《カタル》性肺炎のために命を隕《おと》した。嗣子終吉さんは今の下渋谷《しもしぶや》の家に移った。
わたくしは脩の句稿を左に鈔出《しょうしゅつ》する。類句を避けて精選するが如きは、その道に専《もっぱら》ならざるわたくしの能《よ》くする所ではない。読者の指※[#「てへん+適」、第4水準2−13−57]《してき》を得ば幸《さいわい》であろう。
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山畑《やまはた》や霞《かすみ》の上の鍬《くわ》づかひ
塵塚《ちりづか》に菜の花咲ける弥生《やよい》哉《かな》
海苔《のり》の香《か》や麦藁《むぎわら》染むる縁の先
切凧《きれだこ》のつひに流るゝ小川《こがわ》かな
陽炎《かげろう》と共にちらつく小鮎《こあゆ》哉
いつ見ても初物らしき白魚《しらお》哉
牡丹《ぼたん》切《きっ》て心さびしき夕《ゆうべ》かな
大西瓜《おおすいか》真つ二つにぞ切《きら》れける
山寺は星より高き燈籠《とうろ》かな
稲妻の跡に手ぬるき星の飛ぶ
秋は皆物の淡きに唐芥子《とうがらし》
手も出さで机に向ふ寒さ哉
物売《ものうり》の皆|頭巾《ずきん》着て出る夜《よ》哉
凩《こがらし》や土器《かわらけ》乾く石燈籠
雪の日や鶏《とり》の出て来る炭俵《すみだわら》
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明治四十四年には保の三男純吉が十七歳で八月十一日に死んだ。大正二年には保が七月十二日に麻布《あざぶ》西町《にしまち》十五番地に、八月二十八日に同区|本村町《ほんむらちょう》八番地に移った。三年には九月九日に今の牛込|船河原町《ふながわらちょう》の家に移った。四年には保の次女冬が十月十三日に二十三歳で歿した。これが抽斎歿後の第五十二年から第五十六年に至る事略である。
その百十二
抽斎の後裔《こうえい》にして今に存じているものは、上記の如く、先ず指を牛込の渋江氏に屈せなくてはならない。主人の保さんは抽斎の第七子で、継嗣となったものである。経《けい》を漁村、竹逕《ちくけい》の海保氏父子、島田|篁村《こうそん》、兼松|石居《せききょ》、根本羽嶽に、漢医方を多紀|雲従《うんじゅう》に受け、師範学校において、教育家として養成せられ、共立学舎、慶応義塾において英語を研究し、浜松、静岡にあっては、あるいは校長となり、あるいは教頭となり、旁《かたわら》新聞記者として、政治を論じた。しかし最も大いに精力を費《ついや》したものは、書肆《しょし》博文館のためにする著作翻訳で、その刊行する所の書が、通計約百五十部の多きに至っている。その書は随時|世人《せいじん》を啓発した功はあるにしても、概《おおむね》皆|時尚《じしょう》を追う書估《しょこ》の誅求《ちゅうきゅう》に応じて筆を走らせたものである。保さんの精力は徒費せられたといわざることを得ない。そして保さんは自らこれを知っている。畢竟《ひっきょう》文士と書估との関係はミュチュアリスムであるべきのに、実はパラジチスムになっている。保さんは生物学上の亭主役をしたのである。
保さんの作らんと欲する書は、今なお計画として保さんの意中にある。曰《いわ》く本私刑史、曰く支那刑法史、曰く経子《けいし》一家言、曰く周易一家言、曰く読書五十年、この五部の書が即ちこれである。就中《なかんずく》読書五十年の如きは、啻《ただ》に計画として存在するのみではない、その藁本《こうほん》が既に堆《たい》を成している。これは一種のビブリオグラフィイで、保さんの博渉の一面を窺《うかが》うに足るものである。著者の志す所は厳君《げんくん》の『経籍訪古志』を廓大《かくだい》して、古《いにしえ》より今に及ぼし、東より西に及ぼすにあるといっても、あるいは不可なることがなかろう。保さんは果して能《よ》くその志を成すであろうか。世間は果して能く保さんをしてその志を成さしむるであろうか。
保さんは今年《こんねん》大正五年に六十歳、妻佐野氏お松さんは四十八歳、女《じょ》乙女さんは十七歳である。乙女さんは明治四十一年以降|鏑木清方《かぶらききよかた》に就《つ》いて画《え》を学び、また大正三年|以還《いかん》跡見《あとみ》女学校の生徒になっている。
第二には本所の渋江氏がある。女主人《おんなあるじ》は抽斎の四女|陸《くが》で、長唄の師匠|杵屋勝久《きねやかつひさ》さんがこれである。既に記《き》したる如く、大正五年には七十歳になった。
陸が始《はじめ》て長唄の手ほどきをしてもらった師匠は日本橋|馬喰町《ばくろうちょう》の二世杵屋勝三郎で、馬場《ばば》の鬼勝《おにかつ》と称せられた名人である。これは嘉永三年陸が僅《わずか》に四歳になった時だというから、まだ小柳町の大工の棟梁《とうりょう》新八の家へ里子に遣られていて、そこから
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