百の兄栄次郎が吉原の娼妓《しょうぎ》浜照の許《もと》に通って、遂にこれを娶《めと》るに至った。その時貞白は浜照が身受《みうけ》の相談相手となり、その仮親《かりおや》となることをさえ諾したのである。当時兄の措置《そち》を喜ばなかった五百が、平生|青眼《せいがん》を以て貞白を見なかったことは、想像するに余《あまり》がある。
或日五百は使を遣《や》って貞白を招いた。貞白はおそるおそる日野屋の閾《しきい》を跨《また》いだ。兄の非行を幇《たす》けているので、妹に譴《せ》められはせぬかと懼《おそ》れたのである。
然るに貞白を迎えた五百にはいつもの元気がなかった。「貞白さん、きょうはお頼《たのみ》申したい事があって、あなたをお招《まねき》いたしました」という、態度が例になく慇懃《いんぎん》であった。
何事かと問えば、渋江さんの奥さんの亡くなった跡へ、自分を世話をしてはくれまいかという。貞白は事の意表に出《い》でたのに驚いた。
これより先《さき》日野屋では五百に壻を取ろうという議があって、貞白はこれを与《あずか》り知っていた。壻に擬せられていたのは、上野広小路の呉服店伊藤|松坂屋《まつざかや》の通番頭《かよいばんとう》で、年は三十二、三であった。栄次郎は妹が自分たち夫婦に慊《あきたら》ぬのを見て、妹に壻を取って日野屋の店を譲り、自分は浜照を連れて隠居しようとしたのである。
壻に擬せられている番頭某と五百となら、旁《はた》から見ても好配偶である。五百は二十九歳であるが、打見《うちみ》には二十四、五にしか見えなかった。それに抽斎はもう四十歳に満ちている。貞白は五百の意のある所を解するに苦《くるし》んだ。
そこで五百に問い質《ただ》すと、五百はただ学問のある夫が持ちたいと答えた。その詞《ことば》には道理がある。しかし貞白はまだ五百の意中を読み尽すことが出来なかった。
五百は貞白の気色《けしき》を見て、こう言い足した。「わたくしは壻を取ってこの世帯《せたい》を譲ってもらいたくはありません。それよりか渋江さんの所へ往って、あの方《かた》に日野屋の後見《うしろみ》をして戴《いただ》きたいと思います。」
貞白は膝《ひざ》を拍《う》った。「なるほど/\。そういうお考えですか。宜《よろ》しい。一切わたくしが引き受けましょう。」
貞白は実に五百の深慮遠謀に驚いた。五百の兄栄次郎も、姉|安《やす》の夫宗右衛門も、聖堂に学んだ男である。もし五百が尋常の商人を夫としたら、五百の意志は山内氏にも長尾氏にも軽《かろ》んぜられるであろう。これに反して五百が抽斎の妻となると栄次郎も宗右衛門も五百の前に項《うなじ》を屈せなくてはならない。五百は里方のために謀《はか》って、労少くして功多きことを得るであろう。かつ兄の当然持っておるべき身代《しんだい》を、妹として譲り受けるということは望ましい事ではない。そうして置いては、兄の隠居が何事をしようと、これに喙《くちばし》を容《い》れることが出来ぬであろう。永久に兄を徳として、その為《な》すがままに任せていなくてはなるまい。五百は此《かく》の如き地位に身を置くことを欲せぬのである。五百は潔くこの家を去って渋江氏に適《ゆ》き、しかもその渋江氏の力を藉《か》りて、この家の上に監督を加えようとするのである。
貞白は直《すぐ》に抽斎を訪《と》うて五百の願《ねがい》を告げ、自分も詞《ことば》を添えて抽斎を説き動《うごか》した。五百の婚嫁は此《かく》の如くにして成就したのである。
その百八
保はこの年六月に『横浜毎日新聞』の編輯員《へんしゅういん》になった。これまではその社とただ寄稿者としての連繋のみを有していたのであった。当時の社長は沼間守一《ぬましゅいち》、主筆は島田三郎、会計係は波多野伝三郎《はたのでんざぶろう》という顔触《かおぶれ》で、編輯員には肥塚龍《こえづかりゅう》、青木|匡《ただす》、丸山|名政《めいせい》、荒井泰治《あらいたいじ》の人々がいた。また矢野次郎、角田真平《つのだしんぺい》、高梨哲四郎《たかなしてつしろう》、大岡|育造《いくぞう》の人々は社友であった。次で八月に保は攻玉社の教員を罷《や》めた。九月一日には家を芝|桜川町《さくらがわちょう》十八番地に移した。
脩はこの年十二月に工部技手を罷めた。
水木《みき》はこの年山内氏を冒して芝|新銭座町《しんせんざちょう》に一戸を構えた。
抽斎歿後の第二十七年は明治十八年である。保は新聞社の種々の用務を弁ずるために、しばしば旅行した。十月十日に旅から帰って見ると、森|枳園《きえん》の五日に寄せた書が机上にあった。面談したい事があるが、何時《いつ》往ったら逢《あ》われようかというのである。保は十一日の朝枳園を訪うた。枳園は当時京橋区|水谷町《みずたにちょう》九番地に住んでいて、家族は子婦《よめ》大槻《おおつき》氏よう、孫|女《むすめ》こうの二人《ふたり》であった。嗣子養真は父に先《さきだ》って歿し、こうの妹りゅうは既に人に嫁していたのである。
枳園は『横浜毎日新聞』の演劇欄を担任しようと思って、保に紹介を求めた。これより先|狩谷※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎《かりやえきさい》の『倭名鈔箋註《わみょうしょうせんちゅう》』が印刷局において刻せられ、また『経籍訪古志』が清国使館《しんこくしかん》において刻せられて、これらの事業は枳園がこれに当っていたから、その家は昔の如く貧しくはなかった。しかしこの年一月に大蔵省の職を罷めて、今は月給を受けぬことになっているので、再び記者たらんと欲するのであった。
保は枳園の求《もとめ》に応じて、新聞社に紹介し、二、三篇の文章を社に交付して置いて、十二日にまた社用を帯びて遠江国浜松に往った。然るに用事は一カ所において果すことが出来なかったので、犬居《いぬい》に往《ゆ》き、掛塚《かけづか》から汽船|豊川丸《とよかわまる》に乗って帰京の途に就《つ》いた。そして航海中暴風に遭《あ》って、下田《しもだ》に淹留《えんりゅう》し、十二月十六日にようよう家に帰った。
机上にはまた森氏の書信があった。しかしこれは枳園の手書《しゅしょ》ではなくて、その訃音《ふいん》であった。
枳園は十二月六日に水谷町の家に歿した。年は七十九であった。枳園の終焉《しゅうえん》に当って、伊沢|徳《めぐむ》さんは枕辺《ちんぺん》に侍していたそうである。印刷局は前年の功労を忘れず、葬送の途次|柩《ひつぎ》を官衙《かんが》の前に駐《とど》めしめ、局員皆|出《い》でて礼拝した。枳園は音羽《おとわ》洞雲寺《どううんじ》の先塋《せんえい》に葬られたが、この寺は大正二年八月に巣鴨村《すがもむら》池袋《いけぶくろ》丸山《まるやま》千六百五番地に徙《うつ》された。池袋停車場の西十町ばかりで、府立師範学校の西北、祥雲寺《しょううんじ》の隣である。わたくしは洞雲寺の移転地を尋ねて得ず、これを大槻文彦《おおつきふみひこ》さんに問うて始《はじめ》て知った。この寺には枳園六世の祖からの墓が並んでいる。わたくしの参詣した時には、おこうさんと大槻文彦さんとの名を記《き》した新しい卒堵婆《そとば》が立ててあった。
枳園の後《のち》はその子養真の長女おこうさんが襲《つ》いだ。おこうさんは女流画家で、浅草|永住町《ながすみちょう》の上田|政次郎《まさじろう》という人の許《もと》に現存している。おこうさんの妹おりゅうさんはかつて剞※[#「厥+りっとう」、第4水準2−3−30]氏《きけつし》某に嫁し、後《のち》未亡人となって、浅草|聖天《しょうでん》横町の基督《クリスト》教会堂のコンシェルジェになっていた。基督教徒である。
保は枳園の訃《ふ》を得た後《のち》、病のために新聞記者の業を罷め、遠江国|周智郡《すちごおり》犬居村《いぬいむら》百四十九番地に転籍した。保は病のために時々《じじ》卒倒することがあったので、松山|棟庵《とうあん》が勧めて都会の地を去らしめたのである。
その百九
抽斎歿後の第二十八年は明治十九年である。保は静岡|安西《あんざい》一丁目|南裏町《みなみうらまち》十五番地に移り住んだ。私立静岡英学校の教頭になったからである。校主は藤波甚助《ふじなみじんすけ》という人で、雇《やとい》外国人にはカッシデエ夫妻、カッキング夫人等がいた。当時の生徒で、今名を知られているものは山路愛山《やまじあいざん》さんである。通称は弥吉《やきち》、浅草|堀田原《ほったはら》、後には鳥越《とりごえ》に住んだ幕府の天文|方《かた》山路氏の裔《えい》で、元治《げんじ》元年に生れた。この年二十三歳であった。
十月十五日に保は旧幕臣静岡県士族|佐野常三郎《さのつねさぶろう》の女《じょ》松を娶《めと》った。戸籍名は一《いち》である。保は三十歳、松は明治二年正月十六日|生《うまれ》であるから十八歳であった。
小野|富穀《ふこく》の子道悦が、この年八月に虎列拉《コレラ》を病んで歿した。道悦は天保七年八月|朔《ついたち》に生れた。経書《けいしょ》を萩原楽亭《はぎわららくてい》に、筆札を平井東堂に、医術を多紀|※[#「くさかんむり/頤のへん」、第4水準2−86−13]庭《さいてい》と伊沢柏軒とに学んだ。父と共に仕えて表医者|奥通《おくどおり》に至り、明治三年に弘前において藩学の小学教授に任ぜられ、同じ年に家督相続をした。小学教授とは素読《そどく》の師をいうのである。しかし保が助教授になっていたのは藩学の儒学部で、道悦が小学教授になっていたのはその医学部である。道悦も父祖に似て貨殖に長じていたが、終生|主《おも》に守成《しゅせい》を事としていた。然るに明治十一、二年の交《こう》、道悦が松田|道夫《どうふ》の下《もと》にあって、金沢裁判所の書記をしていると、その留守に妻《さい》が東京にあって投機のために多く金を失った。その後《のち》道悦は保が重野《しげの》成斎に紹介して、修史局の雇員にしてもらうことが出来た。子道太郎は時事新報社の文選をしていたが、父に先《さきだ》って死んだ。
尺振八《せきしんぱち》もまたこの年十一月二十八日に歿した。年は四十八であった。
抽斎歿後の第二十九年は明治二十年である。保は一月二十七日に静岡で発行している『東海|暁鐘《ぎょうしょう》新報』の主筆になった。英学校の職は故《もと》の如くである。『暁鐘新報』は自由党の機関で、前島豊太郎《まえじまとよたろう》という人を社主としていた。五年|前《ぜん》に禁獄三年、罰金九百円に処せられて、世の耳目《じもく》を驚《おどろか》した人で、天保六年の生《うまれ》であるから、五十三歳になっていた。次で保は七月一日に静岡高等|英華《えいか》学校に聘《へい》せられ、九月十五日にまた静岡文武館の嘱託《ぞくたく》を受けて、英語を生徒に授けた。
抽斎歿後の第三十年は明治二十一年である。一月に『東海暁鐘新報』は改題して東海の二字を除いた。同じ月に中江兆民《なかえちょうみん》が静岡を過ぎて保を訪《と》うた。兆民は前年の暮に保安条例に依《よ》って東京を逐《お》われ、大阪|東雲《しののめ》新聞社の聘に応じて西下する途次、静岡には来たのである。六月三十日に保の長男|三吉《さんきち》が生れた。八月十日に私立渋江塾を鷹匠町《たかじょうまち》二丁目に設くることを認可せられた。
脩《おさむ》は七月に東京から保の家に来て、静岡警察署内巡査講習所の英語教師を嘱託せられ、次で保と共に渋江塾を創設した。これより先《さき》脩は渋江氏に復籍していた。
脩は渋江塾の設けられた時妻さだを娶った。静岡の人福島竹次郎の長女で、県下|駿河国《するがのくに》安倍郡《あべごおり》豊田村《とよだむら》曲金《まがりがね》の素封家|海野寿作《うんのじゅさく》の娘分《むすめぶん》である。脩は三十五歳、さだは明治二年八月九日生であるから二十歳であった。
この年九月十五日に、保の許《もと》に匿名の書が届いた。日を期して決闘を求むる書である。その文体書風が悪作劇《いたずら》と
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