た。実は国府《こふ》を去らんとする意があったのである。
 この年矢島|優《ゆたか》は札幌にあって、九月十五日に渋江氏に復籍した。十月二十三日にその妻蝶が歿した。年三十四であった。
 山田|脩《おさむ》はこの年|一月《いちげつ》工部技手に任ぜられ、日本橋電信局、東京府庁電信局等に勤務した。

   その百四

 抽斎歿後の第二十五年は明治十六年である。保は前年の暮に東京に入《い》って、仮に芝田町《しばたまち》一丁目十二番地に住んだ。そして一面愛知県庁に辞表を呈し、一面府下に職業を求めた。保は先ず職業を得て、次で免罷《めんひ》の報に接した。一月十一日には攻玉社《こうぎょくしゃ》の教師となり、二十五日には慶応義塾の教師となって、午前に慶応義塾に往《ゆ》き、午後に攻玉社に往くことにした。攻玉社は社長が近藤真琴《こんどうまこと》、幹事が藤田|潜《ひそむ》で、生徒中には後《のち》に海軍少将に至った秀島《ひでしま》某、海軍大佐に至った笠間直《かさまちょく》等があった。慶応義塾は社頭が福沢諭吉、副社頭が小幡篤次郎《おばたとくじろう》、校長が浜野定四郎《はまのさだしろう》で、教師中に門野幾之進《かどのいくのしん》、鎌田栄吉《かまだえいきち》等があり、生徒中に池辺吉太郎《いけべきちたろう》、門野重九郎《かどのじゅうくろう》、和田豊治《わだとよじ》、日比翁助《ひびおうすけ》、伊吹雷太《いぶきらいた》等があった。愛知県中学校長を免ずる辞令は二月十四日を以て発せられた。保は芝《しば》烏森町《からすもりちょう》一番地に家を借りて、四月五日に国府《こふ》から還《かえ》った母と水木《みき》とを迎えた。
 勝久は相生町《あいおいちょう》の家で長唄を教えていて、山田脩はその家から府庁電信局に通勤していた。そこへ優《ゆたか》が開拓使の職を辞して札幌から帰ったのが八月十日である。優は無妻になっているので、勝久に説いて師匠を罷《や》めさせ、専《もっぱ》ら家政を掌《つかさど》らせた。
 八月中の事であった。保は客《かく》を避けて『横浜毎日新聞』に寄する文を草せんがために、一週日《いっしゅうじつ》ほどの間柳島の帆足謙三《ほあしけんぞう》というものの家に起臥《きが》していた。烏森町の家には水木を遺《のこ》して母に侍せしめ、かつ優、脩、勝久の三人をして交る交るその安否を問わしめた。然るに或夜水木が帆足の家に来て、母が病気と見えて何も食わなくなったと告げた。
 保が家に帰って見ると、五百は床を敷かせて寝ていた。「只今《ただいま》帰りました」と、保はいった。
「お帰《かえり》かえ」といって、五百は微笑した。
「おっ母《か》様、あなたは何も上らないそうですね。わたくしは暑くてたまりませんから、氷を食べます。」
「そんならついでにわたしのも取っておくれ。」五百は氷を食べた。
 翌朝保が「わたくしは今朝《けさ》は生卵にします」といった。
「そうかい、そんならわたしも食べて見よう。」五百は生卵を食べた。
 午《ひる》になって保はいった。「きょうは久しぶりで、洗いに水貝《みずがい》を取って、少し酒を飲んで、それから飯にします。」
「そんならわたしも少し飲もう。」五百は洗いで酒を飲んだ。その時はもう平日の如く起きて坐っていた。
 晩になって保はいった。「どうも夕方になってこんなに風がちっともなくては凌《しの》ぎ切れません。これから汐湯《しおゆ》に這入《はい》って、湖月《こげつ》に寄って涼んで来ます。」
「そんならわたしも往《ゆ》くよ。」五百は遂に汐湯に入《い》って、湖月で飲食《のみくい》した。
 五百は保が久しく帰らぬがために物を食わなくなったのである。五百は女子中では棠《とう》を愛し、男子中では保を愛した。さきに弘前に留守をしていて、保を東京に遣《や》ったのは、意を決した上の事である。それゆえ能《よ》く年余《ねんよ》の久しきに堪えた。これに反して帰るべくして帰らざる保を日ごとに待つことは、五百の難《かた》んずる所であった。この時五百は六十八歳、保は二十七歳であった。

   その百五

 この年十二月二日に優《ゆたか》が本所相生町の家に歿した。優は職を罷《や》める時から心臓に故障があって、東京に還って清川玄道《きよかわげんどう》の治療を受けていたが、屋内に静坐していれば別に苦悩もなかった。歿する日には朝から物を書いていて、午頃《ひるごろ》「ああ草臥《くたび》れた」といって仰臥《ぎょうが》したが、それきり起《た》たなかった。岡西氏|徳《とく》の生んだ、抽斎の次男は此《かく》の如くにして世を去ったのである。優は四十九歳になっていた。子はない。遺骸は感応寺に葬られた。
 優は蕩子《とうし》であった。しかし後《のち》に身を吏籍に置いてからは、微官におったにもかかわらず、頗《すこぶ》る材能《さいのう》を見《あらわ》した。優は情誼《じょうぎ》に厚かった。親戚《しんせき》朋友《ほうゆう》のその恩恵を被ったことは甚だ多い。優は筆札《ひっさつ》を善くした。その書には小島成斎の風があった。その他演劇の事はこの人の最も精通する所であった。新聞紙の劇評の如きは、森|枳園《きえん》と優とを開拓者の中《うち》に算すべきであろう。大正五年に珍書刊行会で公にした『劇界珍話』は飛蝶《ひちょう》の名が署してあるが、優の未定稿である。
 抽斎歿後の第二十六年は明治十七年である。二月十四日に五百が烏森の家に歿した。年六十九であった。
 五百は平生《へいぜい》病むことが少《すくな》かった。抽斎歿後に一たび眼病に罹《かか》り、時々《じじ》疝痛《せんつう》を患《うれ》えた位のものである。特に明治九年還暦の後《のち》は、殆《ほとん》ど無病の人となっていた。然るに前年の八月中、保が家に帰らぬを患《うれ》えて絶食した頃から、やや心身違和の徴があった。保らはこれがために憂慮した。さて新年に入《い》って見ると、五百の健康状態は好《よ》くなった。保は二月九日の夜《よ》母が天麩羅蕎麦《てんぷらそば》を食べて炬燵《こたつ》に当り、史を談じて更《こう》の闌《たけなわ》なるに至ったことを記憶している。また翌十日にも午食《ごしょく》に蕎麦を食べたことを記憶している。午後三時頃五百は煙草を買いに出た。二、三年|前《ぜん》からは子らの諌《いさめ》を納《い》れて、単身戸外に出ぬことにしていたが、当時の家から煙草|店《みせ》へ往く道は、烏森神社の境内であって車も通らぬゆえ、煙草を買いにだけは単身で往った。保は自分の部屋で書を読んで、これを知らずにいた。暫《しばら》くして五百は烟草を買って帰って、保の背後《うしろ》に立って話をし出した。保はかつ読みかつ答えた。初《はじめ》てドイツ語を学ぶ頃で、読んでいる書はシェッフェルの文典であった。保は母の気息の促迫しているのに気が附いて、「おっ母《か》様、大そうせかせかしますね」といった。
「ああ年のせいだろう、少し歩くと息が切れるのだよ。」五百はこういったが、やはり話を罷《や》めずにいた。
 少し立って五百は突然黙った。
「おっ母様、どうかなすったのですか。」保はこういって背後《うしろ》を顧みた。
 五百は火鉢の前に坐って、やや首を傾《かたぶ》けていたが、保はその姿勢の常に異なるのに気が附いて、急に起《た》って傍《かたわら》に往き顔を覗《のぞ》いた。
 五百の目は直視し、口角《こうかく》からは涎《よだれ》が流れていた。
 保は「おっ母様、おっ母様」と呼んだ。
 五百は「ああ」と一声答えたが、人事を省《せい》せざるものの如くであった。
 保は床を敷いて母を寝させ、自ら医師の許《もと》へ走った。

   その百六

 渋江氏の住んでいた烏森の家からは、存生堂《ぞんせいどう》という松山|棟庵《とうあん》の出張所が最も近かった。出張所には片倉《かたくら》某という医師が住んでいた。保は存生堂に駆け附けて、片倉を連れて家に帰った。存生堂からは松山の出張をも請いに遣った。
 片倉が一応の手当をした所へ、松山が来た。松山は一診していった。「これは脳卒中で右半身不随《ゆうはんしんふずい》になっています。出血の部位が重要部で、その血量も多いから、回復の望《のぞみ》はありません」といった。
 しかし保はその言《こと》を信じたくなかった。一時|空《くう》を視《み》ていた母が今は人の面《おもて》に注目する。人が去れば目送する。枕辺《ちんぺん》に置いてあるハンカチイフを左手《さしゅ》に把《と》って畳む。保が傍《そば》に寄るごとに、左手で保の胸を撫《な》でさえした。
 保は更に印東玄得《いんどうげんとく》をも呼んで見せた。しかし所見は松山と同じで、この上手当のしようはないといった。
 五百は遂に十四日の午前七時に絶息した。
 五百の晩年の生活は日々《にちにち》印刷したように同じであった。祁寒《きかん》の時を除く外は、朝五時に起きて掃除をし、手水《ちょうず》を使い、仏壇を拝し、六時に朝食をする。次で新聞を読み、暫く読書する。それから午餐《ごさん》の支度をして、正午に午餐する。午後には裁縫し、四時に至って女中を連れて家を出る。散歩がてら買物をするのである。魚菜をも大抵この時買う。夕餉《ゆうげ》は七時である。これを終れば、日記を附ける。次でまた読書する。倦《う》めば保を呼んで棋《ご》を囲みなどすることもある。寝《しん》に就くのは十時である。
 隔日に入浴し、毎月曜日に髪を洗った。寺には毎月一度|詣《もう》で、親と夫との忌日《きにち》には別に詣でた。会計は抽斎の世にあった時から自らこれに当っていて、死に※[#「二点しんにょう+台」、第3水準1−92−53]《いた》るまで廃せなかった。そしてその節倹の用意には驚くべきものがあった。
 五百の晩年に読んだ書には、新刊の歴史地理の類が多かった。『兵要《へいよう》日本地理小志』はその文が簡潔で好《い》いといって、傍《そば》に置いていた。
 奇とすべきは、五百が六十歳を踰《こ》えてから英文を読みはじめた事である。五百は頗る早く西洋の学術に注意した。その時期を考うるに、抽斎が安積艮斎《あさかごんさい》の書を読んで西洋の事を知ったよりも早かった。五百はまだ里方《さとかた》にいた時、或日兄栄次郎が鮓久《すしきゅう》に奇な事を言うのを聞いた。「人間は夜《よる》逆《さか》さになっている」云々といったのである。五百は怪《あやし》んで、鮓久が去った後《のち》に兄に問うて、始《はじめ》て地動説の講釈を聞いた。その後《のち》兄の机の上に『気海観瀾《きかいかんらん》』と『地理全志』とのあるのを見て、取って読んだ。
 抽斎に嫁した後、或日抽斎が「どうも天井に蝿《はえ》が糞《ふん》をして困る」といった。五百はこれを聞いていった。「でも人間も夜は蝿が天井に止まったようになっているのだと申しますね」といった。抽斎は妻《さい》が地動説を知っているのに驚いたそうである。
 五百は漢訳和訳の洋説を読んで慊《あきたら》ぬので、とうとう保にスペルリングを教えてもらい、ほどなくウィルソンの読本《どくほん》に移り、一年ばかり立つうちに、パアレエの『万国史』、カッケンボスの『米国史』、ホオセット夫人の『経済論』等をぽつぽつ読むようになった。
 五百の抽斎に嫁した時、婚を求めたのは抽斎であるが、この間に或秘密が包蔵せられていたそうである。それは抽斎をして婚を求むるに至らしめたのは、阿部家の医師|石川貞白《いしかわていはく》が勧めたので、石川貞白をして勧めしめたのは、五百自己であったというのである。

   その百七

 石川貞白は初《はじめ》の名を磯野勝五郎《いそのかつごろう》といった。何時《いつ》の事であったか、阿部家の武具係を勤めていた勝五郎の父は、同僚が主家《しゅうけ》の具足を質に入れたために、永《なが》の暇《いとま》になった。その時勝五郎は兼て医術を伊沢榛軒《いさわしんけん》に学んでいたので、直《すぐ》に氏名を改めて剃髪《ていはつ》し、医業を以て身を立てた。
 貞白は渋江氏にも山内氏にも往来して、抽斎を識《し》り五百を識っていた。弘化元年には五
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