うばこ》六個経本|入《いり》男女名取中、十三年忌には袈裟《けさ》一領家元、天蓋《てんがい》一箇男女名取中の寄附があった。これらの文字は、人があるいはわたくしの何故《なにゆえ》にこれを条記して煩を厭《いと》わざるかを怪《あやし》むであろう。しかしわたくしは勝久の手記を閲《けみ》して、いわゆる芸人の師に事《つか》うることの厚きに驚いた。そしてこの善行を埋没するに忍びなかった。もしわたくしが虚礼に瞞過《まんか》せられたという人があったら、わたくしは敢《あえ》て問いたい。そういう人は果して一切の善行の動機を看破することを得るだろうかと。
その百十九
勝久の人に長唄を教うること、今に※[#「二点しんにょう+台」、第3水準1−92−53]《いた》るまで四十四年である。この間に勝久は名取の弟子|僅《わずか》に七人を得ている。明治三十二年には倉田《くらた》ふでが杵屋|勝久羅《かつくら》となった。三十四年には遠藤さとが杵屋|勝久美《かつくみ》となった。四十三年には福原さくが杵屋|勝久女《かつくめ》となり、山口はるが杵屋|勝久利《かつくり》となった。大正二年には加藤たつが杵屋|勝久満《かつくま》となった。三年には細井のりが杵屋|勝久代《かつくよ》となった。五年には伊藤あいが杵屋|勝久纓《かつくお》となった。この外に大正四年に名取になった山田|政次郎《まさじろう》の杵屋|勝丸《かつまる》もある。しかしこれは男の事ゆえ、勝久の弟子ではあるが、名は家元から取らせた。今の教育は都《すべ》て官公私立の学校において行うことになっていて、勢《いきおい》集団教育の法に従わざることを得ない。そしてその弊を拯《すく》うには、ただ個人教育の法を参取する一途があるのみである。是《ここ》において世には往々昔の儒者の家塾を夢みるものがある。然るにいわゆる芸人に名取の制があって、今なお牢守《ろうしゅ》せられていることには想い及ぶものが鮮《すくな》い。尋常|許取《ゆるしとり》の濫《らん》は、芸人があるいは人の誚《そしり》を辞することを得ざる所であろう。しかし夫《か》の名取に至っては、その肯《あえ》て軽々《かろがろ》しく仮借せざる所であるらしい。もしそうでないものなら、四十四年の久しい間に、質《ち》を勝久に委《ゆだ》ねた幾百人の中で、能《よ》く名取の班に列するものが独り七、八人のみではなかったであろう。
勝久の陸《くが》は啻《ただ》に長唄を稽古《けいこ》したばかりではなく、幼《いとけな》くして琴を山勢《やませ》氏に学び、踊を藤間《ふじま》ふじに学んだ。陸の踊に使う衣裳《いしょう》小道具は、渋江の家では十二分に取り揃《そろ》えてあったので、陸と共に踊る子が手廻《てまわ》り兼ねる家の子であると、渋江氏の方でその相手の子の支度をもして遣って踊らせた。陸は善く踊ったが、その嗜好《しこう》が長唄に傾《かたぶ》いていたので、踊は中途で罷《や》められた。
陸は遠州流の活花《いけばな》をも学んだ。碁《ご》象棋《しょうぎ》をも母|五百《いお》に学んだ。五百の碁は二段であった。五百はかつて薙刀《なぎなた》をさえ陸に教えたことがある。
陸の読書筆札の事は既に記したが、やや長ずるに及んでは、五百が近衛予楽院《このえよらくいん》の手本を授けて臨書せしめたそうである。
陸の裁縫は五百が教えた。陸が人と成ってから後《のち》は、渋江の家では重ねものから不断著《ふだんぎ》まで殆《ほとん》ど外へ出して裁縫させたことがない。五百は常に、「為立《したて》は陸に限る、為立屋の為事《しごと》は悪い」といっていた。張物《はりもの》も五百が尺《ものさし》を手にして指図し、布目《ぬのめ》の毫《ごう》も歪《ゆが》まぬように陸に張らせた。「善く張った切《きれ》は新しい反物《たんもの》を裁ったようでなくてはならない」とは、五百の恒《つね》の詞《ことば》であった。
髪を剃《そ》り髪を結《ゆ》うことにも、陸は早く熟錬した。剃ることには、尼|妙了《みょうりょう》が「お陸様が剃《す》って下さるなら、頭が罅欠《ひびかけ》だらけになっても好《い》い」といって、頭を委《まか》せていたので馴《な》れた。結うことはお牧《まき》婆《ば》あやの髪を、前髪に張《はり》のない、小さい祖母子《おばこ》に結ったのが手始《てはじめ》で、後には母の髪、妹の髪、女中たちの髪までも結い、我髪は固《もと》より自ら結った。唯|余所行《よそゆき》の我髪だけ母の手を煩わした。弘前に徙《うつ》った時、浅越《あさごえ》玄隆、前田善二郎の妻、松本|甲子蔵《きねぞう》の妹などは菓子折を持って来て、陸に髪を結ってもらった。陸は礼物《れいもつ》を却《しりぞ》けて結って遣り、流行《はやり》の飾をさえ贈った。
陸は生得《しょうとく》おとなしい子で、泣かず怒《いか》らず、饒舌《じょうぜつ》することもなかった。しかし言動が快活なので、剽軽者《ひょうきんもの》として家人にも他人にも喜ばれたそうである。その人と成った後に、志操が堅固で、義務心に富んでいることは、長唄の師匠としての経歴に徴して知ることが出来る。
牛込《うしごめ》の保さんの家と、その保さんを、父抽斎の継嗣たる故を以て、始終「兄《に》いさん」と呼んでいる本所の勝久さんの家との外に、現に東京には第三の渋江氏がある。即ち下渋谷の渋江氏である。
下渋谷の家は脩の子終吉さんを当主としている。終吉は図案家で、大正三年に津田青楓《つだせいふう》さんの門人になった。大正五年に二十八歳である。終吉には二人《ににん》の弟がある。前年に明治薬学校の業を終えた忠三さんが二十一歳、末男さんが十五歳である。この三人の生母福島氏おさださんは静岡にいる。牛込のお松さんと同齢で、四十八歳である。
底本:「渋江抽斎」岩波文庫、岩波書店
1940(昭和15)年8月16日第1刷発行
1999(平成10)年5月17日改版第1刷発行
底本の親本:「鴎外選集 第6巻」岩波書店
1979(昭和54)年8月23日第1刷発行
初出:「大阪毎日新聞」「東京日日新聞」
1916(大正5)年1月13日〜5月17日
※底本では、「間暇《かんか》」の「間」のみ「※[#「門<月」、326−7]」が用いられ、その他はすべて「門<日」となっています。
入力:kompass
校正:松永正敏
2005年10月1日作成
2009年9月13日修正
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