を二百俵に減ぜられたのである。そして従来|石高《こくだか》を以て給せられていたものは、そのまま俵と看做《みな》して同一の削減を行われた。そして士分を上士《じょうし》、中士、下士に班《わか》って、各班に大少を置いた。二十俵を少下士《しょうかし》、三十俵を大下士、四十俵を少中土、八十俵を大中士、百五十俵を少上土、二百俵を大上土とするというのである。
 渋江氏は原禄三百石であるから、中の上に位するはずで、小禄の家に比ぶれば、受くる所の損失が頗る大きい。それでも渋江氏はこれを得て満足するつもりでいた。
 然るに医者の降等の令が出て、それが渋江氏に適用せられることになった。本《もと》成善《しげよし》は医者の子として近習小姓に任ぜられているには違《ちがい》ない。しかしいまだかつて医として仕えたことはない。しかのみならず令の出《い》づるに先だって、十四歳を以て藩学の助教にせられ、生徒に経書《けいしょ》を授けている。これは師たる兼松石居が已《すで》に屏居《へいきょ》を免《ゆる》されて藩の督学を拝したので、その門人もまた挙用せられたのである。かつ先例を按《あん》ずるに、歯科医佐藤|春益《しゅんえき》の子は、単に幼くして家督したために、平士《へいし》にせられている。いわんや成善は分明《ぶんめい》に儒職にさえ就いているのである。成善がこの令を己《おのれ》に適用せられようと思わなかったのも無理はない。
 しかし成善は念のために大参事|西館孤清《にしだてこせい》、少参事兼大隊長加藤|武彦《たけひこ》の二人《ににん》を見て意見を叩《たた》いた。二人皆成善は医として視《み》るべきものでないといった。武彦は前《さき》の側用人《そばようにん》兼用人|清兵衛《せいべえ》の子である。何ぞ料《はか》らん、成善は医者と看做《みな》されて降等に逢い、三十俵の禄を受くることとなり、あまつさえ士籍の外《ほか》にありなどとさえいわれたのである。成善は抗告を試みたが、何の功をも奏せなかった。

   その八十八

 何故《なにゆえ》に儒を以て仕えている成善に、医者降等の令を適用したかというに、それは想像するに難くはない。渋江氏は世《よよ》儒を兼ねて、命を受けて経《けい》を講じてはいたが、家は本《もと》医道の家である。成善に至っても、幼い時から多紀安琢の門に入《い》っていた。また已《すで》に弘前に来た後《のち》も、医官|北岡太淳《きたおかたいじゅん》、手塚元瑞《てづかげんずい》、今春碩《いまはるせき》らは成善に兼て医を以て仕えんことを勧め、こういう事を言った。「弘前には少壮者中に中村|春台《しゅんたい》、三上道春《みかみどうしゅん》、北岡|有格《ゆうかく》、小野圭庵《おのけいあん》の如きものがある。その他|小山内元洋《おさないげんよう》のように新《あらた》に召し抱えられたものもある。しかし江戸|定府《じょうふ》出身の少《わか》い医者がない。ちと医業の方をも出精《しゅっせい》してはどうだ」といった。かつ令の発せられる少し前の出来事で、成善が津軽|承昭《つぐてる》に医として遇せられていた証拠がある。六月十三日に、藩知事承昭は戦《たたかい》を大星場《おおほしば》に習わせた。承昭は五月二十六日に知事になっていたのである。銃声の盛んに起った時、第五大隊の医官小野道秀が病を発した。承昭は傍《かたわら》に侍した成善をして小野に代らしめた。此《かく》の如く渋江氏の子が医を善くすることは、上下《じょうか》皆信じていたと見える。しかしこれがために、現に儒を以て仕えているものを不幸に陥いれたのは、同情が闕《か》けていたといっても好《よ》かろう。
 矢島|優善《やすよし》は前年の暮に失踪《しっそう》して、渋江氏では疑懼《ぎく》の間に年を送った。この年|一月《いちげつ》二日の午後に、石川駅の人が二通の手紙を持って来た。優善が家を出た日に書いたもので、一は五百《いお》に宛《あ》て、一は成善に宛ててある。並《ならび》に訣別《けつべつ》の書で、所々《しょしょ》涙痕《るいこん》を印《いん》している。石川は弘前を距《さ》ること一里半を過ぎぬ駅であるが、使のものは命ぜられたとおりに、優善が駅を去った後《のち》に手紙を届けたのである。
 五百と成善とは、優善が雪中に行き悩みはせぬか、病み臥《ふ》しはせぬかと気遣《きづか》って、再び人を傭《やと》って捜索させた。成善は自ら雪を冒して、石川、大鰐《おおわに》、倉立《くらだて》、碇関《いかりぜき》等を隈《くま》なく尋ねた。しかし蹤跡《しょうせき》は絶《たえ》て知れなかった。
 優善は東京をさして石川駅を発し、この年一月二十一日に吉原の引手茶屋|湊屋《みなとや》に著《つ》いた。湊屋の上《かみ》さんは大分年を取った女で、常に優善を「蝶《ちょう》さん」と呼んで親《したし》んでいた。優善はこの女をたよって往ったのである。
 湊屋に皆《みな》という娘がいた。このみいちゃんは美しいので、茶屋の呼物《よびもの》になっていた。みいちゃんは津藤《つとう》に縁故があるとかいう河野《こうの》某を檀那《だんな》に取っていたが、河野は遂にみいちゃんを娶《めと》って、優善が東京に著いた時には、今戸橋《いまどばし》の畔《ほとり》に芸者屋を出していた。屋号は同じ湊屋である。
 優善は吉原の湊屋の世話で、山谷堀《さんやぼり》の箱屋になり、主《おも》に今戸橋の湊屋で抱えている芸者らの供をした。
 四カ月半ばかりの後、或人の世話で、優善は本所緑町の安田という骨董店《こっとうてん》に入贅《にゅうぜい》した。安田の家では主人|礼助《れいすけ》が死んで、未亡人《びぼうじん》政《まさ》が寡居していたのである。しかし優善の骨董商時代は箱屋時代より短かった。それは政が優善の妻になって間もなくみまかったからである。
 この頃|前《さき》に浦和県の官吏となった塩田|良三《りょうさん》が、権大属《ごんだいさかん》に陞《のぼ》って聴訟係《ていしょうがかり》をしていたが、優善を県令に薦《すす》めた。優善は八月十八日を以て浦和県出仕を命ぜられ、典獄になった。時に年三十六であった。

   その八十九

 専六は兵士との交《まじわり》が漸《ようや》く深くなって、この年五月にはとうとう「於軍務局楽手稽古被仰付《ぐんむきょくにおいてがくしゅけいこおおせつけらる》」という沙汰書《さたしょ》を受けた。さて楽手の修行をしているうちに、十二月二十九日に山田源吾《やまだげんご》の養子になった。源吾は天保中津軽|信順《のぶゆき》がいまだ致仕せざる時、側用人を勤めていたが、旨《むね》に忤《さか》って永《なが》の暇《いとま》になった。しかし他家に仕えようという念もなく、商估《しょうこ》の業《わざ》をも好まぬので、家の菩提所《ぼだいしょ》なる本所|中《なか》の郷《ごう》の普賢寺《ふけんじ》の一房に※[#「にんべん+就」、第3水準1−14−40]居《しゅうきょ》し、日ごとに街《ちまた》に出《い》でて謡を歌って銭を乞《こ》うた。
 この純然たる浪人生活が三十年ばかり続いたのに、源吾は刀剣、紋附《もんつき》の衣類、上下《かみしも》等を葛籠《つづら》一つに収めて持っていた。
 承昭《つぐてる》はこの年源吾を召し還《かえ》して、二十俵を給し、目見《めみえ》以下の士に列せしめ、本所横川邸の番人を命じた。然るに源吾は年老い身病んで久しく職におりがたいのを慮《おもんばか》って、養子を求めた。
 この時源吾の親戚《しんせき》に戸沢惟清《とざわいせい》というものがあって、専六をその養子に世話をした。戸沢は五百《いお》に説くに、山田の家世《かせい》の本《もと》卑《いやし》くなかったのと、東京|勤《づとめ》の身を立つるに便なるとを以てし、またこういった。「それに専六さんが東京にいると、後《のち》に弟御《おとうとご》さんが上京することになっても御都合が宜《よろ》しいでしょう」といった。成善《しげよし》は等を降《くだ》され禄を減ぜられた後、東京に往って恥を雪《すす》ごうと思っていたからである。
 戸沢がこういって勧めた時、五百は容易にこれに耳を傾《かたぶ》けた。五百は戸沢の人《ひと》と為《な》りを喜んでいたからである。戸沢惟清、通称は八十吉《やそきち》、信順《のぶゆき》在世の日の側役《そばやく》であった。才幹あり気概ある人で、恭謙にして抑損し、些《ちと》の学問さえあった。然るに酒を被《こうぶ》るときは剛愎《ごうふく》にして人を凌《しの》いだ。信順は平素命じて酒を絶たしめ、用帑《ようど》匱《とぼ》しきに至るごとに、これに酒を飲ましめ、命を当局に伝えさせた。戸沢は当局の一諾を得ないでは帰らなかったそうである。
 或時戸沢は公事を以て旅行した。物書《ものかき》松本甲子蔵《まつもときねぞう》がこれに随《したが》っていた。駕籠《かご》の中《うち》に坐した戸沢が、ふと側《かたわら》を歩く松本を見ると、草鞋《わらじ》の緒が足背《そくはい》を破って、鮮血が流れていた。戸沢は急に一行を止《とど》まらせて、大声に「甲子蔵」と呼んだ。「はっ」といって松本は轎扉《きょうひ》に近づいた。戸沢は「ちと内用《ないよう》があるから遠慮いたせ」といって、供のものを遠《とおざ》け、松本に草鞋《わらじ》を脱がせて、強いて轎中に坐せしめ、自ら松本の草鞋を著《つ》け、さて轎丁を呼んで舁《か》いて行かせたそうである。これは松本が保さんに話した事で、保さんはまた戸沢とその弟星野伝六郎とをも識《し》っていた。戸沢の子|米太郎《よねたろう》、星野の子|金蔵《きんぞう》の二人はかつて保さんの教《おしえ》を受けたことがある。
 戸沢の勧誘には、この年弘前に著《ちゃく》した比良野|貞固《さだかた》も同意したので、五百は遂にこれに従って、専六が山田氏に養わるることを諾した。その事の決したのが十二月二十九日で、専六が船の青森を発したのが翌三十日である。この年専六は十七歳になっていた。然るに東京にある養父源吾は、専六がなお舟中《しゅうちゅう》にある間に病歿した。
 矢川文一郎に嫁した陸《くが》は、この年長男|万吉《まんきち》を生んだが、万吉は夭折して弘前|新寺町《しんてらまち》の報恩寺なる文内《ぶんない》が母の墓の傍《かたわら》に葬られた。
 抽斎の六女|水木《みき》はこの年馬役|村田小吉《むらたこきち》の子|広太郎《ひろたろう》に嫁した。時に年十八であった。既にして矢島周禎が琴瑟《きんしつ》調わざることを五百に告げた。五百はやむをえずして水木を取り戻した。
 小野氏ではこの年|富穀《ふこく》が六十四歳で致仕し、子道悦が家督相続をした。道悦は天保七年|生《うまれ》で、三十五歳になっていた。
 中丸昌庵はこの年六月二十八日に歿した。文政元年生の人だから、五十三歳を以て終ったのである。
 弘前の城はこの年五月二十六日に藩庁となったので、知事津軽|承昭《つぐてる》は三之内《さんのうち》に遷《うつ》った。

   その九十

 抽斎歿後の第十三年は明治四年である。成善《しげよし》は母を弘前に遺《のこ》して、単身東京に往《ゆ》くことに決心した。その東京に往こうとするのは、一には降等に遭《あ》って不平に堪えなかったからである。二には減禄の後《のち》は旧に依《よ》って生計を立てて行くことが出来ぬからである。その母を弘前に遺すのは、脱藩の疑《うたがい》を避けんがためである。
 弘前藩は必ずしも官費を以て少壮者を東京に遣ることを嫌わなかった。これに反して私費を以て東京に往こうとするものがあると、藩は已《すで》にその人の脱藩を疑った。いわんや家族をさえ伴おうとすると、この疑は益《ますます》深くなるのであった。
 成善が東京に往こうと思っているのは久しい事で、しばしばこれを師|兼松石居《かねまつせききょ》に謀《はか》った。石居は機を見て成善を官費生たらしめようと誓った。しかし成善は今は徐《しずか》にこれを待つことが出来なくなったのである。
 さて成善は私費を以て往くことを敢《あえ》てするのであるが、なお母だけは遺して置くことにした。これはやむことをえぬ
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