からである。何故《なにゆえ》というに、もし成善が母と倶《とも》に往こうといったなら、藩は放ち遣ることを聴《ゆる》さなかったであろう。
 成善は母に約するに、他日東京に迎え取るべきことを以てした。しかし藩の必ずこれを阻格《そかく》すべきことは、母子皆これを知っていた。約《つづ》めて言えば、弘前を去る成善には母を質《ち》とするに似た恨《うらみ》があった。
 藩が脱籍者の輩出せんことを恐るるに至ったのは、二、三の忌むべき実例があったからである。その首《しゅ》におるものは、彼《か》の勘定奉行を罷《や》めて米穀商となった平川半治である。当時|此《かく》の如く財利のために士籍を遁《のが》れようとする気風があったことは、渋江氏もまた親しくこれを験することを得た。或人は五百《いお》に説いて、東京両国の中村楼を買わせようとした。今千両の金を投じて買って置いたなら、他日|鉅万《きょまん》の富《とみ》を致すことが出来ようといったのである。或人は東京神田|須田町《すだちょう》の某売薬株を買わせようとした。この株は今廉価を以て贖《あがな》うことが出来て、即日から月収三百両|乃至《ないし》五百両の利があるといったのである。五百のこれに耳を仮《か》さなかったことは固《もと》よりである。
 当時藩職におって、津軽家をして士を失わざらしめんと欲し、極力脱籍を防いだのは、大参事|西館孤清《にしだてこせい》である。成善は西館を訪《と》うて、東京に往くことを告げた。西館はおおよそこういった。東京に往くは好《よ》い。学業成就して弘前に帰るなら、我らはこれを任用することを吝《おし》まぬであろう。しかし半途にして母を迎え取らんとするが如きことがあったなら、それは郷土のために謀って忠ならざることを証するものである。我藩はこれを許さぬであろうといった。成善は悲痛の情を抑えて西館の許《もと》を辞した。
 成善は家禄を割《さ》いて、その五人扶持を東京に送致してもらうことを、当路の人に請うて允《ゆる》された。それから長持|一棹《ひとさお》の錦絵を書画兼骨董商|近竹《きんたけ》に売った。これは浅草|蔵前《くらまえ》の兎桂《とけい》等で、二十枚百文位で買った絵であるが、当時三枚二百文|乃至《ないし》一枚百文で売ることが出来た。成善はこの金を得て、半《なかば》は留《とど》めて母に餽《おく》り、半はこれを旅費と学資とに充《あ》てた。
 成善が弘前で暇乞《いとまごい》に廻った家々の中で、最も別《わかれ》を惜《おし》んだのは兼松石居と平井東堂とであった。東堂は左※[#「月+咢」、第3水準1−90−51]下《さがくか》に瘤《こぶ》を生じたので、自ら瘤翁《りゅうおう》と号していたが、別に臨んで、もう再会は覚束《おぼつか》ないといって落涙した。成善の去った翌年、明治五年九月十六日に東堂は塩分町《しおわけちょう》の家に歿した。年五十九である。四女とめが家を継いだ。今東京神田裏|神保町《じんぼうちょう》に住んで、琴の師匠をしている平井|松野《まつの》さんがこのとめである。

   その九十一

 成善《しげよし》は藩学の職を辞して、この年三月二十一日に、母|五百《いお》と水杯《みずさかずき》を酌《く》み交して別れ、駕籠《かご》に乗って家を出た。水杯を酌んだのは、当時の状況より推して、再会の期しがたきを思ったからである。成善は十五歳、五百は五十六歳になっていた。抽斎の歿した時は、成善はまだ少年であったので、この時|始《はじめ》て親子の別《わかれ》の悲しさを知って、轎中《きょうちゅう》で声を発して泣きたくなるのを、ようよう堪え忍んだそうである。
 同行者は松本|甲子蔵《きねぞう》であった。甲子蔵は後に忠章《ちゅうしょう》と改称した。父を庄兵衛《しょうべえ》といって、素《もと》比良野|貞固《さだかた》の父文蔵の若党であった。文蔵はその樸直《ぼくちょく》なのを愛して、津軽家に薦《すす》めて足軽《あしがる》にしてもらった。その子甲子蔵は才学があるので、藩の公用局の史生《しせい》に任用せられていたのである。
 弘前から旅立つものは、石川駅まで駕籠で来て、ここで親戚故旧と酒を酌《く》んで別れる習《ならい》であった。成善を送るものは、句読《くとう》を授けられた少年らの外、矢川文一郎、比良野房之助、服部善吉《はっとりぜんきち》、菱川太郎《ひしかわたろう》などであった。後に服部は東京で時計職工になり、菱川は辻新次さんの家の学僕になったが、二人《ににん》共に已《すで》に世を去った。
 成善は四月七日に東京に着いた。行李《こうり》を卸したのは本所二つ目の藩邸である。これより先成善の兄専六は、山田源吾の養子になって、東京に来て、まだ父子の対面をせぬ間《ま》に死んだ源吾の家に住んでいた。源吾は津軽|承昭《つぐてる》の本所横川に設けた邸をあずかっていて、住宅は本所|割下水《わりげすい》にあったのである。その外東京には五百の姉安が両国|薬研堀《やげんぼり》に住んでいた。安の女《むすめ》二人《ふたり》のうち、敬《けい》は猿若町三丁目の芝居茶屋三河屋に、銓《せん》は蔵前須賀町の呉服屋|桝屋《ますや》儀兵衛の許《もと》にいた。また専六と成善との兄|優善《やすよし》は、ほど遠からぬ浦和にいた。
 成善の旧師には多紀|安琢《あんたく》が矢の倉におり、海保|竹逕《ちくけい》がお玉が池にいた。維新の初《はじめ》に官吏になって、この邸を伊沢鉄三郎の徳安が手から買い受けて、練塀小路《ねりべいこうじ》の湿地にあった、床《ゆか》の低い、畳の腐った家から移り住んだ。独《ひとり》家宅が改まったのみではない。常に弊衣を著《き》ていた竹逕が、その頃から絹布《けんぷ》を被《き》るようになった。しかし幾《いくばく》もなく、当時の有力者山内|豊信《とよしげ》等の斥《しりぞ》くる所となって官を罷《や》めた。成善は四月二十二日に再び竹逕の門に入《い》ったが、竹逕は前年に会陰《えいん》に膿瘍《のうよう》を発したために、やや衰弱していた。成善は久しぶりにその『易《えき》』や『毛詩《もうし》』を講ずるのを聴《き》いた。多紀安琢は維新後困窮して、竹逕の扶養を蒙《こうむ》っていた。成善はしばしばその安否を問うたが、再び『素問』を学ぼうとはしなかった。
 成善は英語を学ばんがために、五月十一日に本所|相生町《あいおいちょう》の共立学舎に通いはじめた。父抽斎は遺言《いげん》して蘭語を学ばしめようとしたのに、時代の変遷は学ぶべき外国語を易《か》うるに至らしめたのである。共立学舎は尺振八《せきしんぱち》の経営する所である。振八、初《はじめ》の名を仁寿《じんじゅ》という。下総国高岡の城主|井上《いのうえ》筑後守|正滝《まさたき》の家来鈴木|伯寿《はくじゅ》の子である。天保十年に江戸佐久間町に生れ、安政の末年《ばつねん》に尺氏を冒した。田辺太一《たなべたいち》に啓発せられて英学に志し、中浜万次郎、西吉十郎《にしきちじゅうろう》等を師とし、次で英米人に親炙《しんしゃ》し、文久中仏米二国に遊んだ。成善が従学した時は三十三歳になっていた。

   その九十二

 成善は四月に海保の伝経廬《でんけいろ》に入《い》り、五月に尺《せき》の共立学舎に入ったが、六月から更に大学|南校《なんこう》にも籍を置き、日課を分割して三校に往来し、なお放課後にはフルベックの許《もと》を訪うて教を受けた。フルベックは本《もと》和蘭《オランダ》人で亜米利加《アメリカ》合衆国に民籍を有していた。日本の教育界を開拓した一人《いちにん》である。
 学資は弘前藩から送って来る五人扶持の中《うち》三人扶持を売って弁ずることが出来た。当時の相場《そうば》で一カ月金二両三分二朱と四百六十七文であった。書籍は英文のものは初より新《あらた》に買うことを期していたが、漢書は弘前から抽斎の手沢本《しゅたくぼん》を送ってもらうことにした。然るにこの書籍を積んだ舟が、航海中七月九日に暴風に遭って覆って、抽斎のかつて蒐集《しゅうしゅう》した古刊本等の大部分が海若《かいじゃく》の有《ゆう》に帰《き》した。
 八月二十八日に弘前県の幹督が成善に命ずるに神社|調掛《しらべがかり》を以てし、金三両二分二朱と二匁二分五厘の手当を給した。この命は成善が共立学舎に入《い》ることを届けて置いたので、同時に「欠席|聞届《ききとどけ》の委頼《いらい》」という形式を以て学舎に伝えられた。これより先七月十四日の詔《みことのり》を以て廃藩置県の制が布《し》かれたので、弘前県が成立していたのである。
 矢島優善は浦和県の典獄になっていて、この年一月七日に唐津《からつ》藩士|大沢正《おおさわせい》の女《むすめ》蝶《ちょう》を娶《めと》った。嘉永二年|生《うまれ》で二十三歳である。これより先前妻鉄は幾多の葛藤《かっとう》を経た後《のち》に離別せられていた。
 優善は七月十七日に庶務局詰に転じ十月十七日に判任史生にせられた。次で十一月十三日に浦和県が廃せられて、その事務は埼玉県に移管せられたので、優善は十二月四日を以て更に埼玉県十四等出仕を命ぜられた。
 成善と倶《とも》に東京に来た松本|甲子蔵《きねぞう》は、優善に薦められて、同時に十五等出仕を命ぜられたが、後《のち》兵事課長に進み、明治三十二年三月二十八日に歿した。弘化二年生であるから、五十五歳になったのである。
 当時県吏の権勢は盛《さかん》なものであった。成善が東京に入《い》った直後に、まだ浦和県出仕の典獄であった優善を訪うと、優善は等外一等出仕宮本半蔵に駕龍《かご》一挺を宰領させて成善を県の界《さかい》に迎えた。成善がその駕籠に乗って、戸田の渡しに掛かると、渡船場《とせんば》の役人が土下座をした。
 優善が庶務局詰になった頃の事である。或日優善は宴会を催して、前年に自分が供をした今戸橋の湊屋《みなとや》の抱《かかえ》芸者を始《はじめ》とし、山谷堀で顔を識《し》った芸者を漏《もれ》なく招いた。そして酒|闌《たけなわ》なる時「己《おれ》はお前方《まえがた》の供をして、大ぶ世話になったことがあるが、今日は己もお客だぞ」といった。大丈夫《だいじょうふ》志を得たという概があったそうである。
 県吏の間には当時飲宴がしばしば行われた。浦和県知事|間島冬道《まじまふゆみち》の催した懇親会では、塩田|良三《りょうさん》が野呂松《のろま》狂言を演じ、優善が莫大小《メリヤス》の襦袢《じゅばん》袴下《はかました》を著《き》て夜這《よばい》の真似《まね》をしたことがある。間島は通称万次郎、尾張《おわり》の藩士である。明治二年四月九日に刑法官判事から大宮《おおみや》県知事に転じた。大宮県が浦和県と改称せられたのは、その年九月二十九日の事である。
 この年の暮、優善が埼玉県出仕になってからの事である。某村の戸長《こちょう》は野菜|一車《ひとくるま》を優善に献じたいといって持って来た。優善は「己《おれ》は賄賂《わいろ》は取らぬぞ」といって却《しりぞ》けた。
 戸長は当惑顔をしていった。「どうもこの野菜をこのまま持って帰っては、村の人民どもに対して、わたくしの面目《めんぼく》が立ちませぬ。」
「そんなら買って遣ろう」と、優善がいった。
 戸長はようよう天保銭一枚を受け取って、野菜を車から卸させて帰った。
 優善は廉《やす》い野菜を買ったからといって、県令以下の職員に分配した。
 県令は野村盛秀《のむらもりひで》であったが、野菜を貰《もら》うと同時にこの顛末《てんまつ》を聞いて、「矢島さんの流義は面白い」といって褒《ほ》めたそうである。野村は初め宗七《そうしち》と称した。薩摩の士で、浦和県が埼玉県となった時、日田《ひた》県知事から転じて埼玉県知事に任ぜられた。間島冬道は去って名古屋県に赴いて、参事の職に就いたが、後明治二十三年九月三十日に御歌所寄人《おんうたどころよりうど》を以て終った。また野村は後《のち》明治六年五月二十一日にこの職にいて歿したので、長門《ながと》の士参事|白根多助《しらねたすけ》が一時県務を摂行《せっこう》した。

   そ
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