る。
専六は兵士の間に交《まじわり》を求めた。兵士らは呼ぶに医者銃隊の名を以てして、頗《すこぶ》るこれを愛好した。
時に弘前に徙《うつ》った定府《じょうふ》中に、山澄吉蔵《やまずみきちぞう》というものがあった。名を直清《なおきよ》といって、津軽藩が文久三年に江戸に遣《や》った海軍修行生徒七人の中《うち》で、中小姓を勤めていた。築地《つきじ》海軍操練所で算数の学を修め、次で塾の教員の列に加わった。弘前に徙って間もなく、山澄は熕隊《こうたい》司令官にせられた。兵士中|身《み》を立てんと欲するものは、多くこの山澄を師として洋算《ようざん》を学んだ。専六もまた藤田|潜《ひそむ》、柏原櫟蔵《かしわばられきぞう》らと共に山澄の門に入《い》って、洋算簿記を学ぶこととなり、いつとなく元秀の講筵《こうえん》には臨まなくなった。後《のち》山澄は海軍大尉を以て終り、柏原は海軍少将を以て終った。藤田さんは今|攻玉《こうぎょく》社長《しゃちょう》をしている。攻玉社は後に近藤真琴《こんどうまこと》の塾に命ぜられた名である。初め麹町《こうじまち》八丁目の鳥羽《とば》藩主稲垣対馬守|長和《ながかず》の邸内にあったのが、中ごろ築地海軍操練所内に移るに及んで、始めて攻玉塾と称し、次で芝《しば》神明町《しんめいちょう》の商船黌《しょうせんこう》と、芝《しば》新銭座《しんせんざ》の陸地測量習練所とに分離し、二者の総称が攻玉社となり、明治十九年に至るまで、近藤自らこれを経営していたのである。
その八十五
小野|富穀《ふこく》とその子|道悦《どうえつ》とが江戸を引き上げたのは、この年二月二十三日で、道中に二十五日を費《ついや》し、三月十八日に弘前に著《つ》いた。渋江氏の弘前に入《い》るに先《さきだ》つこと二カ月足らずである。
矢島|優善《やすゆき》が隠居させられた時、跡を襲《つ》いだ周禎《しゅうてい》の一家《いっけ》も、この年に弘前へ徙《うつ》ったが、その江戸を発する時、三男|三蔵《さんぞう》は江戸に留《とど》まった。前に小田原《おだわら》へ往った長男|周碩《しゅうせき》と、この三蔵とは、後にカトリック教の宣教師になったそうである。弘前へ往った周禎は表医者|奥通《おくどおり》に進み、その次男で嗣子にせられた周策《しゅうさく》もまた目見《めみえ》の後《のち》表医者を命ぜられた。
袖斎の姉須磨の夫|飯田良清《いいだよしきよ》の養子孫三郎は、この年江戸が東京と改称した後《のち》、静岡藩に赴いて官吏になった。
森|枳園《きえん》はこの年七月に東京から福山に遷《うつ》った。当時の藩主は文久元年に伊予守|正教《まさのり》の後《のち》を承《う》けた阿部《あべ》主計頭《かぞえのかみ》正方《まさかた》であった。
優善の友塩田|良三《りょうさん》はこの年|浦和《うらわ》県の官吏になった。これより先良三は、優善が山田|椿庭《ちんてい》の塾に入《い》ったのと殆《ほとん》ど同時に、伊沢柏軒の塾に入《い》って、柏軒にその才の雋鋭《しゅんえい》なるを認められ、節《せつ》を折って書を読んだ。文久三年に柏軒が歿してからは家に帰っていて、今|仕宦《しかん》したのである。
この年|箱館《はこだて》に拠《よ》っている榎本武揚《えのもとたけあき》を攻めんがために、官軍が発向する中に、福山藩の兵が参加していた。伊沢榛軒の嗣子|棠軒《とうけん》はこれに従って北に赴いた。そして渋江氏を富田新町に訪《と》うた。棠軒は福山藩から一粒金丹《いちりゅうきんたん》を買うことを託せられていたので、この任を果たす傍《かたわら》、故旧の安否を問うたのである。棠軒、名は信淳《しんじゅん》、通称は春安《しゅんあん》、池田|全安《ぜんあん》が離別せられた後《のち》に、榛軒の女《じょ》かえの壻となったのである。かえは後に名をそのと更《あらた》めた。おそのさんは現存者で、市谷《いちがや》富久町《とみひさちょう》の伊沢|徳《めぐむ》さんの許《もと》にいる。徳さんは棠軒の嫡子である。
抽斎歿後の第十一年は明治二年である。抽斎の四女|陸《くが》が矢川文一郎に嫁したのは、この年九月十五日である。
陸が生れた弘化四年には、三女|棠《とう》がまだ三歳で、母の懐《ふところ》を離れなかったので、陸は生れ降《お》ちるとすぐに、小柳町《こやなぎちょう》の大工の棟梁《とうりょう》新八というものの家へ里子《さとこ》に遣《や》られた。さて嘉永四年に棠が七歳で亡くなったので、母五百が五歳の陸を呼び返そうとすると、偶《たまたま》矢島氏鉄が来たのを抱いて寝なくてはならなくなって、陸を還すことを見あわせた。翌五年にようよう還った陸は、色の白い、愛らしい六歳の少女であった。しかし五百の胸をば棠を惜《おし》む情が全く占めていたので、陸は十分に母の愛に浴することが出来ずに、母に対しては頗《すこぶ》る自ら抑遜《よくそん》していなくてはならなかった。
これに反して抽斎は陸を愛撫《あいぶ》して、身辺におらせて使役しつつ、或時五百にこういった。「己《おれ》はこんなに丈夫だから、どうもお前よりは長く生きていそうだ。それだから今の内に、こうして陸を為込《しこ》んで置いて、お前に先へ死なれた時、この子を女房代りにするつもりだ。」
陸はまた兄矢島優善にも愛せられた。塩田良三もまた陸を愛する一人《いちにん》で、陸が手習をする時、手を把《と》って書かせなどした。抽斎が或日陸の清書を見て、「良三さんのお清書が旨《うま》く出来たな」といって揶揄《からか》ったことがある。
陸は小さい時から長歌《ながうた》が好《すき》で、寒夜に裏庭の築山《つきやま》の上に登って、独り寒声《かんごえ》の修行をした。
その八十六
抽斎の四女陸はこの家庭に生長して、当時なおその境遇に甘んじ、毫《ごう》も婚嫁を急ぐ念がなかった。それゆえかつて一たび飯田|寅之丞《とらのじょう》に嫁せんことを勧めたものもあったが、事が調《ととの》わなかった。寅之丞は当時近習小姓であった。天保十三年|壬寅《じんいん》に生れたからの名である。即ち今の飯田|巽《たつみ》さんで、巽の字は明治二年|己巳《きし》に二十八になったという意味で選んだのだそうである。陸との縁談は媒《なこうど》が先方に告げずに渋江氏に勧めたのではなかろうが、余り古い事なので巽さんは已《すで》に忘れているらしい。然るにこの度は陸が遂に文一郎の聘《へい》を却《しりぞ》くることが出来なくなった。
文一郎は最初の妻|柳《りゅう》が江戸を去ることを欲せぬので、一人の子を附けて里方へ還して置いて弘前へ立った。弘前に来た直後に、文一郎は二度目の妻を娶《めと》ったが、いまだ幾《いくばく》ならぬにこれを去った。この女は西村与三郎の女《むすめ》作であった。次で箱館から帰った頃からであろう、陸を娶ろうと思い立って、人を遣《つかわ》して請うこと数度に及んだ。しかし渋江氏では輒《すなわ》ち動かなかった。陸には旧に依《よ》って婚嫁を急ぐ念がない。五百は文一郎の好人物なることを熟知していたが、これを壻にすることをば望まなかった。こういう事情の下《もと》に、両家の間にはやや久しく緊張した関係が続いていた。
文一郎は壮年の時パッションの強い性質を有していた。その陸に対する要望はこれがために頗る熱烈であった。渋江氏では、もしその請《こい》を納《い》れなかったら、あるいは両家の間に事端《じたん》を生じはすまいかと慮《おもんばか》った。陸が遂に文一郎に嫁したのは、この疑懼《ぎく》の犠牲になったようなものである。
この結婚は、名義からいえば、陸が矢川氏に嫁したのであるが、形迹《けいせき》から見れば、文一郎が壻入をしたようであった。式を行《おこな》った翌日から、夫婦は終日渋江の家にいて、夜更《よふ》けて矢川の家へ寝に帰った。この時文一郎は新《あらた》に馬廻《うままわり》になった年で二十九歳、陸は二十三歳であった。
矢島|優善《やすよし》は、陸が文一郎の妻《さい》になった翌月、即ち十月に、土手町に家を持って、周禎の許《もと》にいた鉄を迎え入れた。これは行懸《ゆきがか》りの上から当然の事で、五百は傍《はた》から世話を焼いたのである。しかし二十三歳になった鉄は、もう昔日の如く夫の甘言に賺《すか》されてはおらぬので、この土手町の住いは優善が身上《しんじょう》のクリジスを起す場所となった。
優善と鉄との間に、夫婦の愛情の生ぜぬことは、固《もと》より予期すべきであった。しかし啻《ただ》に愛情が生ぜざるのみではなく、二人は忽《たちま》ち讐敵《しゅうてき》となった。そしてその争うには、鉄がいつも攻勢を取り、物質上の利害問題を提《ひっさ》げて夫に当るのであった。「あなたがいくじがないばかりに、あの周禎のような男に矢島の家を取られたのです。」この句が幾度《いくたび》となく反復せられる鉄が論難の主眼であった。優善がこれに答えると、鉄は冷笑する、舌打をする。
この争《あらそい》は週を累《かさ》ね月を累ねて歇《や》まなかった。五百らは百方調停を試みたが何の功をも奏せなかった。
五百はやむことをえぬので、周禎に交渉して再び鉄を引き取ってもらおうとした。しかし周禎は容易に応ぜなかった。渋江氏と周禎が方《かた》との間に、幾度となく交換せられた要求と拒絶とは、押問答《おしもんどう》の姿になった。
この往反《おうへん》の最中に忽ち優善が失踪《しっそう》した。十二月二十八日に土手町の家を出て、それきり帰って来ぬのである。渋江氏では、優善が悶《もん》を排せんがために酒色の境に遁《のが》れたのだろうと思って、手分《てわけ》をして料理屋と妓楼《ぎろう》とを捜索させた。しかし優善のありかはどうしても知れなかった。
その八十七
比良野|貞固《さだかた》は江戸を引き上げる定府《じょぅふ》の最後の一組三十戸ばかりの家族と共に、前年五、六月の交《こう》安済丸《あんさいまる》という新造|帆船《ほぶね》に乗った。然《しか》るに安済丸は海に泛《うか》んで間もなく、柁機《だき》を損じて進退の自由を失った。乗組員は某地より上陸して、許多《あまた》の辛苦を甞《な》め、この年五月にようよう東京に帰った。
さて更に米艦スルタン号に乗って、この度は無事に青森に著《ちゃく》した。佐藤弥六《さとうやろく》さんは当時の同乗者の一人《いちにん》だそうである。
弘前にある渋江氏は、貞固が東京を発したことを聞いていたのに、いつまでも到著《とうちゃく》せぬので、どうした事かと案じていた。殊に比良野助太郎と書した荷札が青森の港に流れ寄ったという流言などがあって、いよいよ心を悩まする媒《なかだち》となった。そのうちこの年十二月十日頃に青森から発した貞固の手書《しゅしょ》が来た。その中《うち》には安済丸の故障のために一たび去った東京に引き返し、再び米艦に乗って来たことを言って、さて金を持って迎えに来てくれといってあった。一年余の間無益な往反をして、貞固の盤纏《はんてん》は僅《わずか》に一分銀《いちぶぎん》一つを剰《あま》していたのである。
弘前に来てから現金の給与を受けたことのない渋江氏では、この書を得て途方に暮れたが、船廻《ふなまわ》しにした荷の中《うち》に、刀剣のあったのを三十五|振《ふり》質に入れて、金二十五両を借り、それを持って往って貞固を弘前へ案内した。
貞固の養子房之助はこの年に手廻《てまわり》を命ぜられたが、藩制が改まったので、久しくこの職におることが出来なかった。
抽斎歿後の第十二年は明治三年である。六月十八日に弘前藩士の秩禄《ちつろく》は大削減を加えられ、更に医者の降等《こうとう》が令せられた。禄高《ろくだか》は十五俵より十九俵までを十五俵に、二十俵より二十九俵までを二十俵に、三十俵より四十九俵までを三十俵に、五十俵より六十九俵までを四十俵に、七十俵より九十九俵までを六十俵に、百俵より二百四十九俵までを八十俵に、二百五十俵より四百九十九俵までを百俵に、五百俵より七百九十九俵までを百五十俵に、八百俵以上
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