がわ》より利根川《とねがわ》に出《い》で、流山《ながれやま》、柴又《しばまた》等を経て小山《おやま》に著《つ》いた。江戸を距《さ》ること僅《わずか》に二十一里の路に五日を費《ついや》した。近衛家《このえけ》に縁故のある津軽家は、西館孤清《にしだてこせい》の斡旋《あっせん》に依って、既に官軍に加わっていたので、路の行手《ゆくて》の東北地方は、秋田の一藩を除く外、悉《ことごと》く敵地である。一行の渋江、矢川《やがわ》、浅越《あさごえ》の三氏の中では、渋江氏は人数《にんず》も多く、老人があり少年少女がある。そこで最も身軽な矢川文一郎と、乳飲子《ちのみご》を抱いた妻という累《わずらい》を有するに過ぎぬ浅越玄隆とをば先に立たせて、渋江一家が跡に残った。
 五百らの乗った五|挺《ちょう》の駕籠《かご》を矢島|優善《やすよし》が宰領して、若党二人を連れて、石橋《いしばし》駅に掛かると、仙台藩の哨兵線《しょうへいせん》に出合った。銃を擬した兵卒が左右二十人ずつ轎《かご》を挟《さしはさ》んで、一つ一つ戸を開けさせて誰何《すいか》する。女の轎は仔細《しさい》なく通過させたが、成善の轎に至って、審問に時を費した。この晩に宿に著いて、五百は成善に女装させた。
 出羽《でわ》の山形は江戸から九十里で、弘前に至る行程の半《なかば》である。常の旅には此《ここ》に来ると祝う習《ならい》であったが、五百らはわざと旅店を避けて鰻屋《うなぎや》に宿を求めた。

   その八十二

 山形から弘前に往く順路は、小坂峠《こざかとうげ》を踰《こ》えて仙台に入《い》るのである。五百らの一行は仙台を避けて、板谷峠《いたやとうげ》を踰えて米沢《よねざわ》に入《い》ることになった。しかしこの道筋も安全ではなかった。上山《かみのやま》まで往くと、形勢が甚だ不穏なので、数日間|淹留《えんりゅう》した。
 五百らは路用の金が竭《つ》きた。江戸を発する時、多く金を携えて行くのは危険だといって、金銭を長持《ながもち》五十|荷《か》余りの底に布《し》かせて舟廻《ふなまわ》しにしたからである。五百らは上山で、ようよう陸を運んで来た些《ちと》の荷物の過半を売った。これは金を得ようとしたばかりではない。間道《かんどう》を進むことに決したので、嵩高《かさだか》になる荷は持っていられぬからである。荷を売った銭は固《もと》より路用の不足を補う額には上《のぼ》らなかった。幸に弘前藩の会計方に落ち合って、五百らは少しの金を借ることが出来た。
 上山を発してからは人烟《じんえん》稀《まれ》なる山谷《さんこく》の間を過ぎた。縄梯子《なわばしご》に縋《すが》って断崖《だんがい》を上下《しょうか》したこともある。夜《よる》の宿は旅人《りょじん》に餅《もち》を売って茶を供する休息所の類《たぐい》が多かった。宿で物を盗まれることも数度に及んだ。
 院内峠《いんないとうげ》を踰えて秋田領に入《い》った時、五百らは少しく心を安んずることを得た。領主|佐竹右京大夫義堯《さたけうきょうのたゆうよしたか》は、弘前の津軽|承昭《つぐてる》と共に官軍|方《がた》になっていたからである。秋田領は無事に過ぎた。
 さて矢立峠《やたてとうげ》を踰え、四十八川を渡って、弘前へは往くのである。矢立峠の分水線が佐竹、津軽両家の領地|界《ざかい》である。そこを少し下《くだ》ると、碇関《いかりがせき》という関があって番人が置いてある。番人は鑑札を検してから、始《はじめ》て慇懃《いんぎん》な詞《ことば》を使うのである。人が雲表《うんぴょう》に聳《そび》ゆる岩木山《いわきやま》を指《ゆびさ》して、あれが津軽富士で、あの麓《ふもと》が弘前の城下だと教えた時、五百らは覚えず涙を翻《こぼ》して喜んだそうである。
 弘前に入《い》ってから、五百らは土手町《どてまち》の古着商伊勢屋の家に、藩から一人《いちにん》一日《いちじつ》金|一分《いちぶ》の為向《しむけ》を受けて、下宿することになり、そこに半年余りいた。船廻しにした荷物は、ほど経て後《のち》に着いた。下宿屋から街《ちまた》に出《い》づれば、土地の人が江戸子《えどこ》々々々と呼びつつ跡に附いて来る。当時|髻《もとどり》を麻糸で結《ゆ》い、地織木綿《じおりもめん》の衣服を著《き》た弘前の人々の中へ、江戸|育《そだち》の五百らが交《まじ》ったのだから、物珍らしく思われたのも怪《あやし》むに足りない。殊《こと》に成善《しげよし》が江戸でもまだ少かった蝙蝠傘《かわほりがさ》を差して出ると、看《み》るものが堵《と》の如くであった。成善は蝙蝠傘と、懐中時計とを持っていた。時計は識《し》らぬ人さえ紹介を求めて見に来るので、数日のうちに弄《いじ》り毀《こわ》されてしまった。
 成善は近習小姓の職があるので、毎日|登城《とじょう》することになった。宿直は二カ月に三度位であった。
 成善は経史《けいし》を兼松石居《かねまつせききょ》に学んだ。江戸で海保竹逕《かいほちくけい》の塾を辞して、弘前で石居の門を敲《たた》いたのである。石居は当時既に蟄居《ちっきょ》を免《ゆる》されていた。医学は江戸で多紀安琢《たきあんたく》の教《おしえ》を受けた後《のち》、弘前では別に人に師事せずにいた。
 戦争は既に所々《しょしょ》に起って、飛脚が日ごとに情報を齎《もたら》した。共に弘前へ来た矢川文一郎は、二十八歳で従軍して北海道に向うことになった。また浅越玄隆は南部方面に派遣せられた。この時浅越の下に附属せられたのが、新《あらた》に町医者から五人扶持の小普請医者に抱えられた蘭法医|小山内元洋《おさないげんよう》である。弘前ではこれより先藩学|稽古館《けいこかん》に蘭学堂を設けて、官医と町医との子弟を教育していた。これを主宰していたのは江戸の杉田|成卿《せいけい》の門人佐々木|元俊《げんしゅん》である。元洋もまた杉田門から出た人で、後|建《けん》と称して、明治十八年二月十四日に中佐《ちゅうさ》相当陸軍一等軍医|正《せい》を以て広島に終った。今の文学士|小山内薫《おさないかおる》さんと画家|岡田三郎助《おかださぶろうすけ》さんの妻|八千代《やちよ》さんとは建の遺子である。矢島|優善《やすよし》は弘前に留《とど》まっていて、戦地から後送《こうそう》せられて来る負傷者を治療した。

   その八十三

 渋江氏の若党の一人中条勝次郎は、弘前に来てから思いも掛けぬ事に遭遇した。
 一行が土手町に下宿した後|二《に》、三月《さんげつ》にして暴風雨があった。弘前の人は暴風雨を岩木山の神が崇《たたり》を作《な》すのだと信じている。神は他郷の人が来て土着するのを悪《にく》んで、暴風雨を起すというのである。この故に弘前の人は他郷の人を排斥する。就中《なかんずく》丹後《たんご》の人と南部の人とを嫌う。なぜ丹後の人を嫌うかというに、岩木山の神は古伝説の安寿姫《あんじゅひめ》で、己《おのれ》を虐使した山椒大夫《さんしょうたゆう》の郷人を嫌うのだそうである。また南部の人を嫌うのは、神も津軽人のパルチキュラリスムに感化せられているのかも知れない。
 暴風雨の後《のち》数日にして、新に江戸から徙《うつ》った家々に沙汰《さた》があった。もし丹後、南部等の生《うまれ》のものが紛《まぎ》れ入《い》っているなら、厳重に取り糺《ただ》して国境の外に逐《お》えというのである。渋江氏の一行では中条が他郷のものとして目指《めざ》された。中条は常陸《ひたち》生だといって申し解《と》いたが、役人は生国《しょうこく》不明と認めて、それに立退《たちのき》を諭《さと》した。五百はやむことをえず、中条に路用の金を与えて江戸へ還らせた。
 冬になってから渋江氏は富田新町《とみたしんまち》の家に遷《うつ》ることになった。そして知行《ちぎょう》は当分の内六分|引《びけ》を以て給するという達しがあって、実は宿料食料の外《ほか》何の給与もなかった。これが後《のち》二年にして秩禄《ちつろく》に大削減を加えられる発端《ほったん》であった。二年|前《ぜん》から逐次に江戸を引き上げて来た定府《じょうふ》の人たちは、富田新町、新寺町《しんてらまち》新割町《しんわりちょう》、上白銀町《かみしろかねちょう》、下《しも》白銀町、塩分町《しおわけちょう》、茶畑町《ちゃばたちょう》の六カ所に分れ住んだ。富田新町には江戸子町《えどこまち》、新寺町新割町には大矢場《おおやば》、上白銀町には新屋敷の異名がある。富田新町には渋江氏の外、矢川文一郎、浅越玄隆らがおり、新寺町新割町には比良野|貞固《さだかた》、中村勇左衛門らがおり、下白銀町には矢川文内らがおり、塩分町には平井東堂らがおった。
 この頃五百は専六が就学《じゅがく》問題のために思《おもい》を労した。専六の性質は成善とは違う。成善は書を読むに人の催促を須《ま》たない。そしてその読む所の書は自ら択ぶに任せることが出来る。それゆえ五百は彼が兼松石居に従って経史を攻《おさ》めるのを見て、毫《ごう》も容喙《ようかい》せずにいた。成善が儒となるもまた可、医となるもまた不可なるなしとおもったのである。これに反して専六は多く書を読むことを好まない。書に対すれば、先ず有用無用の詮議《せんぎ》をする。五百はこの子には儒となるべき素質がないと信じた。そこで意を決して剃髪せしめた。
 五百は弘前の城下について、専六が師となすべき医家を物色した。そして親方町《おやかたちょう》に住んでいる近習医者|小野元秀《おのげんしゅう》を獲《え》た。

   その八十四

 小野元秀は弘前藩士|対馬幾次郎《つしまいくじろう》の次男で、小字《おさなな》を常吉《つねきち》といった。十六、七歳の時、父幾次郎が急に病を発した。常吉は半夜|馳《は》せて医師某の許《もと》に往った。某は家にいたのに、来《きた》り診することを肯《がえん》ぜなかった。常吉はこの時父のために憂え、某のために惜《おし》んで、心にこれを牢記《ろうき》していた。後に医となってから、人の病あるを聞くごとに、家の貧富を問わず、地の遠近を論ぜず、食《くら》うときには箸《はし》を投じ、臥《ふ》したるときには被《ひ》を蹴《け》て起《た》ち、径《ただ》ちに往《ゆ》いて診したのは、少時の苦《にが》き経験を忘れなかったためだそうである。元秀は二十六歳にして同藩の小野|秀徳《しゅうとく》の養子となり、その長女そのに配せられた。
 元秀は忠誠にして廉潔であった。近習医に任ぜられてからは、詰所《つめしょ》に出入《いでいり》するに、朝《あした》には人に先んじて往《ゆ》き、夕《ゆうべ》には人に後れて反《かえ》った。そして公退後には士庶の病人に接して、絶《たえ》て倦《う》む色がなかった。
 稽古館教授にして、五十石町《ごじっこくまち》に私塾を開いていた工藤他山《くどうたざん》は、元秀と親善であった。これは他山がいまだ仕途に就《つ》かなかった時、元秀がその貧を知って、※[#「米+胥」、第4水準2−83−94]《しょ》を受けずして懇《ねんごろ》に治療した時からの交《まじわり》である。他山の子|外崎《とのさき》さんも元秀を識《し》っていたが、これを評して温潤良玉の如き人であったといっている。五百が専六をして元秀に従学せしめたのは、実にその人を獲たものというべきである。
 元秀の養子|完造《かんぞう》は本《もと》山崎氏で、蘭法医伊東玄朴の門人である。完造の養子|芳甫《ほうほ》さんは本《もと》鳴海《なるみ》氏で、今弘前の北川端町《きたかわばたちょう》に住んでいる。元秀の実家の裔《すえ》は弘前の徒町《かちまち》川端町の対馬|※[#「金+公」、243−12]蔵《しょうぞう》さんである。
 専六は元秀の如き良師を得たが、憾《うら》むらくは心、医となることを欲せなかった。弘前の人は毎《つね》に、円頂《えんちょう》の専六が筒袖《つつそで》の衣《い》を著《き》、短袴《たんこ》を穿《は》き、赤毛布《あかもうふ》を纏《まと》って銃を負い、山野を跋渉《ばっしょう》するのを見た。これは当時の兵士の服装であ
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