を以て人に殺された。その殺されたのが九つ半頃であったというから、丁度保さんと清助とがこの応答をしていた時である。
 陣幕の事を言ったから、因《ちなみ》に小錦《こにしき》の事をも言って置こう。伊沢のおかえさんに附けられていた松という少女があった。松は魚屋与助《うおやよすけ》の女《むすめ》で、菊、京の二人《ふたり》の妹があった。この京が岩木川《いわきがわ》の種を宿して生んだのが小錦|八十吉《やそきち》である。
 保さんは今一つ、柏軒の奥医師になった時の事を記憶している。それは手習の師小島成斎が、この時柏軒の子鉄三郎に対する待遇を一変した事である。福山侯の家来成斎が、いかに幕府の奥医師の子を尊敬しなくてはならなかったかという、当年の階級制度の画図《がと》が、明《あきらか》に穉《おさな》い成善の目前に展開せられたのである。

   その七十六

 小島成斎が神田の阿部家の屋敷に住んで、二階を教場《きょうじょう》にして、弟子に手習をさせた頃、大勢の児童が机を並べている前に、手に鞭《むち》を執って坐し、筆法を正《ただ》すに鞭の尖《さき》を以て指《ゆびさ》し示し、その間には諧謔《かいぎゃく》を交えた話をしたことは、前に書いた。成斎は話をするに、多く伊沢柏軒の子鉄三郎を相手にして、鉄坊々々と呼んだが、それが意あってか、どうか知らぬが、鉄砲々々と聞えた。弟子らもまた鉄三郎を鉄砲さんと呼んだ。
 成斎が鉄砲さんを揶揄《からか》えば、鉄砲さんも必ずしも師を敬ってばかりはいない。往々|戯言《けげん》を吐いて尊厳を冒すことがある。成斎は「おのれ鉄砲|奴《め》」と叫びつつ、鞭を揮《ふる》って打とうとする。鉄砲は笑って逃《にげ》る。成斎は追い附いて、鞭で頭を打つ。「ああ、痛い、先生ひどいじゃありませんか」と、鉄砲はつぶやく。弟子らは面白がって笑った。こういう事は殆《ほとん》ど毎日あった。
 然るにこの年の三月になって、鉄砲さんの父柏軒が奥医師になった。翌日から成斎ははっきりと伊沢の子に対する待遇を改めた。例之《たとえ》ば筆法を正すにも「徳安《とくあん》さん、その点はこうお打《うち》なさいまし」という。鉄三郎はよほど前に小字《おさなな》を棄《す》てて徳安と称していたのである。この新《あらた》な待遇は、不思議にも、これを受ける伊沢の嫡男をして忽《たちま》ち態度を改めしめた。鉄三郎の徳安は甚だしく大人《おとな》しくなって、殆どはにかむように見えた。
 この年の九月に柏軒はあずかっていた抽斎の蔵書を還《かえ》した。それは九月の九日に将軍|家茂《いえもち》が明年二月を以て上洛《じょうらく》するという令を発して、柏軒はこれに随行する準備をしたからである。渋江氏は比良野|貞固《さだかた》に諮《はか》って、伊沢氏から還された書籍の主なものを津軽家の倉庫にあずけた。そして毎年二度ずつ虫干《むしぼし》をすることに定めた。当時作った目録によれば、その部数は三千五百余に過ぎなかった。
 書籍が伊沢氏から還されて、まだ津軽家にあずけられぬほどの事であった。森|枳園《きえん》が来て『論語』と『史記』とを借りて帰った。『論語』は乎古止点《おことてん》を施した古写本で、松永久秀《まつながひさひで》の印記があった。『史記』は朝鮮|板《ばん》であった。後《のち》明治二十三年に保さんは島田篁村《しまだこうそん》を訪《と》うて、再びこの『論語』を見た。篁村はこれを細川十洲《ほそかわじっしゅう》さんに借りて閲《けみ》していたのである。
 津軽家ではこの年十月十四日に、信順《のぶゆき》が浜町中屋敷において、六十三歳で卒した。保さんの成善《しげよし》は枕辺《まくらべ》に侍していた。
 この年十二月二十一日の夜《よ》、塙次郎《はなわじろう》が三番町《さんばんちょう》で刺客《せきかく》の刃《やいば》に命を隕《おと》した。抽斎は常にこの人と岡本|况斎《きょうさい》とに、国典の事を詢《と》うことにしていたそうである。次郎は温古堂《おんこどう》と号した。保己一《ほきいち》の男《だん》、四谷《よつや》寺町《てらまち》に住む忠雄《ただお》さんの祖父である。当時の流言に、次郎が安藤対馬守|信睦《のぶゆき》のために廃立の先例を取り調べたという事が伝えられたのが、この横禍《おうか》の因をなしたのである。遺骸の傍《かたわら》に、大逆《たいぎゃく》のために天罰を加うという捨札《すてふだ》があった。次郎は文化十一年|生《うまれ》で、殺された時が四十九歳、抽斎より少《わか》きこと九年であった。
 この年六月中旬から八月下旬まで麻疹《ましん》が流行して、渋江氏の亀沢町の家へ、御柳《ぎょりゅう》の葉と貝多羅葉《ばいたらよう》とを貰《もら》いに来る人が踵《くびす》を接した。二樹《にじゅ》の葉が当時民間薬として用いられていたからである。五百は終日応接して、諸人《しょにん》の望に負《そむ》かざらんことを努めた。

   その七十七

 抽斎歿後の第五年は文久三年である。成善《しげよし》は七歳で、始《はじめ》て矢の倉の多紀安琢《たきあんたく》の許《もと》に通って、『素問《そもん》』の講義を聞いた。
 伊沢柏軒はこの年五十四歳で歿した。徳川|家茂《いえもち》に随《したが》って京都に上り、病を得て客死《かくし》したのである。嗣子鉄三郎の徳安《とくあん》がお玉が池の伊沢氏の主人となった。
 この年七月二十日に山崎美成《やまざきよししげ》が歿した。抽斎は美成と甚だ親しかったのではあるまい。しかし二家《にか》書庫の蔵する所は、互《たがい》に出《い》だし借すことを吝《おし》まなかったらしい。頃日《このごろ》珍書刊行会が『後昔物語《のちはむかしものがたり》』を刊したのを見るに、抽斎の奥書《おくがき》がある。「右|喜三二《きさじ》随筆後昔物語一巻。借好間堂蔵本《こうもんどうぞうほんをかり》。友人|平伯民為予謄写《へいはくみんよがためにとうしゃす》。庚子孟冬《こうしもうとう》一校。抽斎。」庚子《こうし》は天保十一年で、抽斎が弘前から江戸に帰った翌年である。平伯民《へいはくみん》は平井東堂だそうである。
 美成、字は久卿《きゅうけい》、北峰《ほくほう》、好問堂《こうもんどう》等の号がある。通称は新兵衛《しんべえ》、後《のち》久作と改めた。下谷《したや》二長町《にちょうまち》に薬店を開いていて、屋号を長崎屋といった。晩年には飯田町《いいだまち》の鍋島《なべしま》というものの邸内にいたそうである。黐木坂下《もちのきざかした》に鍋島|穎之助《えいのすけ》という五千石の寄合《よりあい》が住んでいたから、定めてその邸であろう。
 美成の歿した時の齢《よわい》を六十七歳とすると、抽斎より長ずること八歳であっただろう。しかし諸書の記載が区々《まちまち》になっていて、確《たしか》には定めがたい。
 抽斎歿後の第六年は元治《げんじ》元年である。森枳園が躋寿館《せいじゅかん》の講師たるを以て、幕府の月俸を受けることになった。
 第七年は慶応元年である。渋江氏では六月二十日に翠暫《すいざん》が十一歳で夭札《ようさつ》した。
 比良野|貞固《さだかた》はこの年四月二十七日に妻かなの喪に遭《あ》った。かなは文化十四年の生《うまれ》で四十九歳になっていた。内に倹素を忍んで、外《ほか》に声望を張ろうとする貞固が留守居の生活は、かなの内助を待って始《はじめ》て保続せられたのである。かなの死後に、親戚僚属は頻《しきり》に再び娶《めと》らんことを勧めたが、貞固は「五十を踰《こ》えた花壻になりたくない」といって、久しくこれに応ぜずにいた。
 第八年は慶応二年である。海保漁村が九年|前《ぜん》に病に罹《かか》り、この年八月その再発に逢《あ》い、九月十八日に六十九歳で歿したので、十歳の成善は改めてその子|竹逕《ちくけい》の門人になった。しかしこれは殆ど名義のみの変更に過ぎなかった。何故《なにゆえ》というに、晩年の漁村が弟子《ていし》のために書を講じたのは、四九の日の午後のみで、その他授業は竹逕が悉《ことごと》くこれに当っていたからである。漁村の書を講ずる声は咳嗄《しわが》れているのに、竹逕は音吐《おんと》晴朗で、しかも能弁であった。後年に至って島田篁村の如きも、講壇に立つときは、人をして竹逕の口吻《こうふん》態度を学んでいはせぬかと疑わしめた。竹逕の養父に代って講説することは、啻《ただ》に伝経廬《でんけいろ》におけるのみではなかった。竹逕は弊衣《へいい》を著《き》て塾を出《い》で、漁村に代って躋寿館に往《ゆ》き、間部家《まなべけ》に往き、南部家に往いた。勢《いきおい》此《かく》の如くであったので、漁村歿後に至っても、練塀小路《ねりべいこうじ》の伝経廬は旧に依《よ》って繁栄した。
 多年渋江氏に寄食していた山内豊覚《やまのうちほうかく》の妾《しょう》牧《まき》は、この年七十七歳を以て、五百の介抱を受けて死んだ。

   その七十八

 抽斎の姉|須磨《すま》が飯田良清《いいだよしきよ》に嫁して生んだ女《むすめ》二人《ふたり》の中で、長女|延《のぶ》は小舟町《こぶねちょう》の新井屋半七《あらいやはんしち》が妻となって死に、次女|路《みち》が残っていた。路は痘瘡《とうそう》のために貌《かたち》を傷《やぶ》られていたのを、多分この年の頃であっただろう、三百石の旗本で戸田某という老人が後妻に迎えた。戸田氏は旗本中に頗《すこぶ》る多いので、今考えることが出来にくい。良清の家は、須磨の生んだ長男|直之助《なおのすけ》が夭折した跡へ、孫三郎という養子が来て継いでから、もう久しうなっていた。飯田孫三郎は十年|前《ぜん》の安政三年から、「武鑑」の徒目附《かちめつけ》の部に載せられている。住所は初め湯島《ゆしま》天沢寺前《てんたくじまえ》としてあって、後には湯島天神裏門前としてある。保さんの記憶している家は麟祥院前《りんしょういんまえ》の猿飴《さるあめ》の横町であったそうである。孫三郎は維新後静岡県の官吏になって、良政《よしまさ》と称し、後また東京に入《い》って、下谷《したや》車坂町《くるまざかちょう》で終ったそうである。
 比良野|貞固《さだかた》は妻かなが歿した後《のち》、稲葉氏から来た養子|房之助《ふさのすけ》と二人で、鰥暮《やもめぐら》しをしていたが、無妻で留守居を勤めることは出来ぬと説くものが多いので、貞固の心がやや動いた。この年の頃になって、媒人《なこうど》が表坊主《おもてぼうず》大須《おおす》というものの女《むすめ》照《てる》を娶《めと》れと勧めた。「武鑑」を検するに、慶応二年に勤めていたこの氏の表坊主父子がある。父は玄喜《げんき》、子は玄悦《げんえつ》で、麹町《こうじまち》三軒家《さんげんや》の同じ家に住んでいた。照は玄喜の女《むすめ》で、玄悦の妹ではあるまいか。
 貞固は津軽家の留守居役所で使っている下役《したやく》杉浦喜左衛門《すぎうらきざえもん》を遣《や》って、照を見させた。杉浦は老実な人物で、貞固が信任していたからである。照に逢って来た杉浦は、盛んに照の美を賞して、その言語《げんぎょ》その挙止さえいかにもしとやかだといった。
 結納《ゆいのう》は取換《とりかわ》された。婚礼の当日に、五百《いお》は比良野の家に往って新婦を待ち受けることになった。貞固と五百とが窓の下《もと》に対坐していると、新婦の轎《かご》は門内に舁《か》き入れられた。五百は轎を出る女を見て驚いた。身の丈《たけ》極《きわめ》て小さく、色は黒く鼻は低い。その上口が尖《とが》って歯が出ている。五百は貞固を顧みた。貞固は苦笑《にがわら》をして、「お姉《あね》えさん、あれが花よめ御《ご》ですぜ」といった。
 新婦が来てから杯《さかずき》をするまでには時が立った。五百は杉浦のおらぬのを怪《あやし》んで問うと、よめの来たのを迎えてすぐに、比良野の馬を借りて、どこかへ乗って往ったということであった。
 暫らくして杉浦は五百と貞固との前へ出て、※[#「桑+頁」、第3水準1−94−2]《ひたい》の汗を拭《ぬぐ》いつついった。「実に分疏
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