。この人たちは啻《ただ》に酒家|妓楼《ぎろう》に出入《いでいり》するのみではなく、常に無頼《ぶらい》の徒と会して袁耽《えんたん》の技を闘わした。良三の如きは頭を一つ竈《べっつい》にしてどてらを被《き》て街上《かいじょう》を闊歩《かっぽ》したことがあるそうである。優善の背後には、もうネメシスの神が逼《せま》り近づいていた。
 渋江氏が亀沢町に来る時、五百はまた長尾一族のために、本《もと》の小家《こいえ》を新しい邸に徙《うつ》して、そこへ一族を棲《すま》わせた。年月《ねんげつ》は詳《つまびらか》にせぬが、長尾氏の二女の人に嫁したのは、亀沢町に来てからの事である。初め長女敬が母と共に坐食するに忍びぬといって、媒《なかだち》するもののあるに任せて、猿若町《さるわかちょう》三丁目|守田座附《もりたざつき》の茶屋|三河屋力蔵《みかわやりきぞう》に嫁し、次で次女|銓《せん》も浅草|須賀町《すがちょう》の呉服商|桝屋儀兵衛《ますやぎへえ》に嫁した。未亡人は筆算が出来るので、敬の夫力蔵に重宝《ちょうほう》がられて、茶屋の帳場にすわることになった。
 抽斎の蔵書は兼て三万五千部あるといわれていたが、この年亀沢町に徙《うつ》って検すると、既に一万部に満たなかった。矢島優善が台所町の土蔵から書籍を搬出するのを、当時まだ生きていた兄|恒善《つねよし》が見附けて、奪い還《かえ》したことがある。しかし人目に触れずに、どれだけ出して売ったかわからない。或時は二階から本を索《なわ》に繋《つな》いで卸すと、街上に友人が待ち受けていて持ち去ったそうである。安政三年以後、抽斎の時々《じじ》病臥《びょうが》することがあって、その間には書籍の散佚《さんいつ》することが殊《こと》に多かった。また人に貸して失った書も少くない。就中《なかんずく》森|枳園《きえん》とその子養真とに貸した書は多く還らなかった。成善《しげよし》が海保の塾に入《い》った後には、海保|竹逕《ちくけい》が数《しばしば》渋江氏に警告して、「大分|御《ご》蔵書印のある本が市中に見えるようでございますから、御注意なさいまし」といった。
 抽斎の心に懸けて死んだ躋寿館校刻の『医心方』は、この年完成して、森枳園らは白銀若干を賞賜せられた。
 抽斎に洋学の必要を悟らせた安積艮斎《あさかごんさい》は、この年十一月二十二日に七十一歳で歿した。艮斎の歿した時の齢《よわい》は諸書に異同があって、中に七十一としたものと七十六としたものとが多い。鈴木|春浦《しゅんぽ》さんに頼んで、妙源寺の墓石と過去帖とを検してもらったが、並《ならび》に皆これを記していない。しかし文集を閲《けみ》するに、故郷の安達太郎山《あだたらやま》に登った記に、干支と年齢のおおよそとが書してあって、万延元年に七十六に満たぬことは明白である。子|文九郎重允《ぶんくろうちょういん》が家を嗣いだ。少《わか》い時|疥癬《かいせん》のために衰弱したのを、父が温泉に連れて往って治《ち》したことが、文集に見えている。抽斎は艮斎のワシントンの論讃を読んで、喜んで反復したそうである。恐《おそら》くは『洋外紀略』の「嗚呼《ああ》話聖東《ワシントンは》、雖生於戎羯《じゅうけつにうまるといえども》、其為人《そのひととなりや》、有足多者《たりておおきものあり》」云々の一節であっただろう。

   その七十一

 抽斎歿後第三年は文久元年である。年の初《はじめ》に五百《いお》は大きい本箱三つを成善《しげよし》の部屋に運ばせて、戸棚の中に入れた。そしてこういった。
「これは日本に僅《わずか》三部しかない善《い》い版の『十三|経註疏《ぎょうちゅうそ》』だが、お父《と》う様がお前のだと仰《おっしゃ》った。今年はもう三回忌の来る年だから、今からお前の傍《そば》に置くよ」といった。
 数日の後に矢島|優善《やすよし》が、活花《いけばな》の友達を集めて会をしたいが、緑町の家には丁度|好《い》い座敷がないから、成善の部屋を借りたいといった。成善は部屋を明け渡した。
 さて友達という数人が来て、汁粉《しるこ》などを食って帰った跡で、戸棚の本箱を見ると、その中は空虚であった。
 三月六日に優善は「身持《みもち》不行跡|不埒《ふらち》」の廉《かど》を以て隠居を命ぜられ、同時に「御憐憫《ごれんびん》を以て名跡《みょうせき》御立被下置《おんたてくだされおく》」ということになって、養子を入れることを許された。
 優善のまさに養うべき子を選ぶことをば、中丸昌庵が引き受けた。然るに中丸の歓心を得ている近習詰百五十石六人扶持の医者に、上原元永《うえはらげんえい》というものがあって、この上原が町医|伊達周禎《だてしゅうてい》を推薦した。
 周禎は同じ年の八月四日を以て家督相続をして、矢島氏の禄二百石八人扶持を受けることになった。養父優善は二十七歳、養子周禎は文化十四年|生《うまれ》で四十五歳になっていた。
 周禎の妻を高《たか》といって、已《すで》に四子を生んでいた。長男|周碩《しゅうせき》、次男周策、三男三蔵、四男玄四郎が即ちこれである。周禎が矢島氏を冒した時、長男周碩は生得《しょうとく》不調法《ぶちょうほう》にして仕宦《しかん》に適せぬと称して廃嫡を請い、小田原《おだわら》に往って町医となった。そこで弘化二年生の次男周策が嗣子に定まった。当時十七歳である。
 これより先《さき》優善が隠居の沙汰《さた》を蒙《こうむ》った時、これがために最も憂えたものは五百で、最も憤《いきどお》ったものは比良野|貞固《さだかた》である。貞固は優善を面責《めんせき》して、いかにしてこの辱《はずかしめ》を雪《すす》ぐかと問うた。優善は山田昌栄の塾に入《い》って勉学したいと答えた。
 貞固は先ず優善が改悛《かいしゅん》の状を見届けて、然《しか》る後《のち》に入塾せしめるといって、優善と妻|鉄《てつ》とを自邸に引き取り、二階に住《すま》わせた。
 さて十月になってから、貞固は五百《いお》を招いて、倶《とも》に優善を山田の塾に連れて往った。塾は本郷弓町にあった。
 この塾の月俸は三分二朱であった。貞固のいうには、これは聊《いささか》の金ではあるが、矢島氏の禄を受くる周禎が当然支出すべきもので、また優善の修行中その妻鉄をも周禎があずかるが好《い》いといった。そしてこの二件を周禎に交渉した。周禎はひどく迷惑らしい答をしたが、後に渋りながらも承諾した。想うに上原は周禎を矢島氏の嗣となすに当って、株の売渡《うりわたし》のような形式を用いたのであろう。上原は渋江氏に対して余り同情を有せぬ人で、優善には屁《へ》の糟《かす》という渾名《あだな》をさえ附けていたそうである。
 山田の塾には当時門人十九人が寄宿していたが、いまだ幾《いくばく》もあらぬに梅林松弥《うめばやしまつや》というものと優善とが塾頭にせられた。梅林は初め抽斎に学び、後《のち》此《ここ》に来たもので、維新後名を潔《けつ》と改め、明治二十一年一月十四日に陸軍一等軍医を以て終った。
 比良野氏ではこの年同藩の物頭《ものがしら》二百石|稲葉丹下《いなばたんげ》の次男|房之助《ふさのすけ》を迎えて養子とした。これは貞固が既に五十歳になったのに、妻かなが子を生まぬからであった。房之助は嘉永四年八月二日|生《うまれ》で、当時十一歳になっていて、学問よりは武芸が好《すき》であった。

   その七十二

 矢川氏ではこの年文一郎が二十一歳で、本所二つ目の鉄物問屋《かなものどいや》平野屋の女《むすめ》柳《りゅう》を娶《めと》った。
 石塚重兵衛の豊芥子《ほうかいし》は、この年十二月十五日に六十三歳で歿した。豊芥子が渋江氏の扶助を仰ぐことは、殆《ほとん》ど恒例の如くになっていた。五百《いお》は石塚氏にわたす金を記《しる》す帳簿を持っていたそうである。しかし抽斎はこの人の文字《もんじ》を識《し》って、広く市井の事に通じ、また劇の沿革を審《つまびらか》にしているのを愛して、来《きた》り訪《と》うごとに歓び迎えた。今抽斎に遅るること三年で世を去ったのである。
 人の死を説いて、直ちにその非を挙げんは、後言《しりうごと》めく嫌《きらい》はあるが、抽斎の蔵書をして散佚《さんいつ》せしめた顛末《てんまつ》を尋ぬるときは、豊芥子もまた幾分の責《せめ》を分たなくてはならない。その持ち去ったのは主に歌舞|音曲《おんぎょく》の書、随筆小説の類である。その他書画|骨董《こっとう》にも、この人の手から商估《しょうこ》の手にわたったものがある。ここに保さんの記憶している一例を挙げよう。抽斎の遺物に円山応挙《まるやまおうきょ》の画《え》百枚があった。題材は彼《か》の名高い七難七福の図に似たもので、わたくしはその名を保さんに聞いて記憶しているが、少しくこれを筆にすることを憚《はばか》る。装※[#「さんずい+(廣−广)」、第3水準1−87−13]《そうこう》頗る美にして桐の箱入になっていた。この画と木彫《もくちょう》の人形数箇とを、豊芥子は某会に出陳するといって借りて帰った。人形は六歌仙と若衆《わかしゅ》とで、寛永時代の物だとかいうことであった。これは抽斎が「三坊《さんぼう》には雛《ひな》人形を遣らぬ代《かわり》にこれを遣る」といったのだそうである。三坊とは成善《しげよし》の小字《おさなな》三吉《さんきち》である。五百は度々|清助《せいすけ》という若党を、浅草|諏訪町《すわちょう》の鎌倉屋へ遣って、催促して還《かえ》させようとしたが、豊芥子は言《こと》を左右に託して、遂にこれを還さなかった。清助は本《もと》京都の両替店《りょうがえてん》銭屋《ぜにや》の息子《むすこ》で、遊蕩《ゆうとう》のために親に勘当せられ、江戸に来て渋江氏へ若党に住み込んだ。手跡がなかなか好《い》いので、豊芥子の筆耕に傭《やと》われることになっていた。それゆえ鎌倉屋への使に立ったのである。
 森|枳園《きえん》が小野富穀《おのふこく》と口論をしたという話があって、その年月を詳《つまびらか》にせぬが、わたくしは多分この年の頃であろうと思う。場所は山城河岸《やましろがし》の津藤《つとう》の家であった。例の如く文人、画師《えし》、力士、俳優、幇間《ほうかん》、芸妓《げいぎ》等の大一座で、酒|酣《たけなわ》なる比《ころ》になった。その中に枳園、富穀、矢島|優善《やすよし》、伊沢|徳安《とくあん》などが居合せた。初め枳園と富穀とは何事をか論じていたが、万事を茶にして世を渡る枳園が、どうしたわけか大いに怒《いか》って、七代目|賽《もどき》のたんかを切り、胖大漢《はんだいかん》の富穀をして色を失って席を遁《のが》れしめたそうである。富穀もまた滑稽《こっけい》趣味においては枳園に劣らぬ人物で、臍《へそ》で烟草《タバコ》を喫《の》むという隠芸《かくしげい》を有していた。枳園とこの人とがかくまで激烈に衝突しようとは、誰《たれ》も思い掛《か》けぬので、優善、徳安の二人は永くこの喧嘩《けんか》を忘れずにいた。想うに貨殖《かしょく》に長じた富穀と、人の物と我物との別に重きを置かぬ、無頓着《むとんじゃく》な枳園とは、その性格に相容《あいい》れざる所があったであろう。津藤《つとう》即ち摂津国屋《つのくにや》藤次郎《とうじろう》は、名は鱗《りん》、字は冷和《れいわ》、香以《こうい》、鯉角《りかく》、梅阿弥《ばいあみ》等と号した。その豪遊を肆《ほしいまま》にして家産を蕩尽《とうじん》したのは、世の知る所である。文政五年|生《うまれ》で、当時四十歳である。
 この年の抽斎が忌日《きにち》の頃であった。小島成斎は五百に勧めて、なお存している蔵書の大半を、中橋埋地《なかばしうめち》の柏軒が家にあずけた。柏軒は翌年お玉が池に第宅《ていたく》を移す時も、家財と共にこれを新居に搬《はこ》び入れて、一年間位|鄭重《ていちょう》に保護《ほうご》していた。

   その七十三

 抽斎歿後の第四年は文久二年である。抽斎は世にある日、藩主に活版|薄葉刷《うすようずり》の『医方類聚《いほうるいじゅ》』を献ずる
前へ 次へ
全45ページ中28ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング