ど必ず捺《お》してある。
別号には観柳書屋、柳原《りゅうげん》書屋、三亦堂《さんえきどう》、目耕肘《もくこうちゅう》書斎、今未是翁《こんみぜおう》、不求甚解《ふきゅうじんかい》翁等がある。その三世|劇神仙《げきしんせん》と称したことは、既にいったとおりである。
抽斎はかつて自ら法諡《ほうし》を撰んだ。容安院《ようあんいん》不求甚解居士《ふきゅうじんかいこじ》というのである。この字面《じめん》は妙ならずとはいいがたいが、余りに抽象的である。これに反して抽斎が妻|五百《いお》のために撰んだ法諡は妙|極《きわ》まっている。半千院《はんせんいん》出藍終葛大姉《しゅつらんしゅうかつだいし》というのである。半千は五百、出藍は紺屋町《こんやちょう》に生れたこと、終葛は葛飾郡《かつしかごおり》で死ぬることである。しかし世事《せいじ》の転変は逆覩《げきと》すべからざるもので、五百は本所《ほんじょ》で死ぬることを得なかった。
この二つの法諡はいずれも石に彫《え》られなかった。抽斎の墓には海保漁村の文を刻した碑が立てられ、また五百の遺骸は抽斎の墓穴《ぼけつ》に合葬せられたからである。
大抵伝記はその人の死を以て終るを例とする。しかし古人を景仰《けいこう》するものは、その苗裔《びょうえい》がどうなったかということを問わずにはいられない。そこでわたくしは既に抽斎の生涯を記《しる》し畢《おわ》ったが、なお筆を投ずるに忍びない。わたくしは抽斎の子孫、親戚、師友等のなりゆきを、これより下《しも》に書き附けて置こうと思う。
わたくしはこの記事を作るに許多《あまた》の障礙《しょうがい》のあることを自覚する。それは現存の人に言い及ぼすことが漸《ようや》く多くなるに従って、忌諱《きき》すべき事に撞着《とうちゃく》することもまた漸く頻《しきり》なることを免れぬからである。この障礙は上《かみ》に抽斎の経歴を叙して、その安政中の末路に近づいた時、早く既に頭《こうべ》を擡《もたげ》げて来た。これから後《のち》は、これが弥《いよいよ》筆端に纏繞《てんじょう》して、厭《いと》うべき拘束を加えようとするであろう。しかしわたくしはよしや多少の困難があるにしても、書かんと欲する事だけは書いて、この稿を完《まっと》うするつもりである。
渋江の家には抽斎の歿後に、既にいうように、未亡人五百、陸《くが》、水木《みき》、専六、翠暫《すいざん》、嗣子|成善《しげよし》と矢島氏を冒した優善《やすよし》とが遺っていた。十月|朔《さく》に才《わずか》に二歳で家督相続をした成善と、他の五人の子との世話をして、一家《いっか》の生計を立てて行かなくてはならぬのは、四十三歳の五百であった。
遺子六人の中で差当り問題になっていたのは、矢島優善の身の上である。優善は不行跡《ふぎょうせき》のために、二年|前《ぜん》に表医者から小普請医者に貶《へん》せられ、一年|前《ぜん》に表医者|介《すけ》に復し、父を喪う年の二月に纔《わずか》に故《もと》の表医者に復することが出来たのである。
しかし当時の優善の態度には、まだ真に改悛《かいしゅん》したものとは看做《みな》しにくい所があった。そこで五百《いお》は旦暮《たんぼ》周密にその挙動を監視しなくてはならなかった。
残る五人の子の中《うち》で、十二歳の陸、六歳の水木、五歳の専六はもう読書、習字を始めていた。陸や水木には、五百が自ら句読《くとう》を授け、手跡《しゅせき》は手を把《と》って書かせた。専六は近隣の杉四郎《すぎしろう》という学究の許《もと》へ通っていたが、これも五百が復習させることに骨を折った。また専六の手本は平井東堂が書いたが、これも五百が臨書だけは手を把って書かせた。午餐後《ごさんご》日の暮れかかるまでは、五百は子供の背後《うしろ》に立って手習《てならい》の世話をしたのである。
その六十六
邸内に棲《すま》わせてある長尾の一家《いっけ》にも、折々多少の風波《ふうは》が起る。そうすると必ず五百《いお》が調停に往《ゆ》かなくてはならなかった。その争《あらそい》は五百が商業を再興させようとして勧めるのに、安《やす》が躊躇《ちゅうちょ》して決せないために起るのである。宗右衛門《そうえもん》の長女|敬《けい》はもう二十一歳になっていて、生得《しょうとく》やや勝気なので、母をして五百の言《こと》に従わしめようとする。母はこれを拒みはせぬが、さればとて実行の方へは、一歩も踏み出そうとはしない。ここに争は生ずるのであった。
さてこれが鎮撫《ちんぶ》に当るものが五百でなくてはならぬのは、長尾の家でまだ宗右衛門が生きていた時からの習慣である。五百の言《こと》には宗右衛門が服していたので、その妻や子もこれに抗することをば敢《あえ》てせぬのである。
宗右衛門が妻《さい》の妹の五百を、啻《ただ》抽斎の配偶として尊敬するのみでなく、かくまでに信任したには、別に来歴がある。それは或時宗右衛門が家庭のチランとして大いに安を虐待して、五百の厳《きびし》い忠告を受け、涙を流して罪を謝したことがあって、それから後《のち》は五百の前に項《うなじ》を屈したのである。
宗右衛門は性質|亮直《りょうちょく》に過ぐるともいうべき人であったが、癇癪持《かんしゃくもち》であった。今から十二年|前《ぜん》の事である。宗右衛門はまだ七歳の銓《せん》に読書を授け、この子が大きくなったなら士《さむらい》の女房《にょうぼう》にするといっていた。銓は記性《きせい》があって、書を善く読んだ。こういう時に、宗右衛門が酒気を帯びていると、銓を側に引き附けて置いて、忍耐を教えるといって、戯《たわむれ》のように煙管《キセル》で頭を打つことがある。銓は初め忍んで黙っているが、後《のち》には「お父《と》っさん、厭《いや》だ」といって、手を挙げて打つ真似《まね》をする。宗右衛門は怒《いか》って「親に手向《てむかい》をするか」といいつつ、銓を拳《こぶし》で乱打する。或日こういう場合に、安が停《と》めようとすると、宗右衛門はこれをも髪を攫《つか》んで拉《ひ》き倒して乱打し、「出て往《ゆ》け」と叫んだ。
安は本《もと》宗右衛門の恋女房である。天保五年三月に、当時阿部家に仕えて金吾《きんご》と呼ばれていた、まだ二十歳の安が、宿に下《さが》って堺町《さかいちょう》の中村座へ芝居を看《み》に往った。この時宗右衛門は安を見初《みそ》めて、芝居がはねてから追尾《ついび》して行って、紺屋町の日野屋に入るのを見極めた。同窓の山内栄次郎の家である。さては栄次郎の妹であったかというので、直ちに人を遣《や》って縁談を申し込んだのである。
こうしたわけで貰《もら》われた安も、拳の下《もと》に崩れた丸髷《まるまげ》を整える遑《いとま》もなく、山内へ逃げ帰る。栄次郎の忠兵衛は広瀬を名告《なの》る前の頃で、会津屋《あいづや》へ調停に往くことを面倒がる。妻はおいらん浜照《はまてる》がなれの果で何の用にも立たない。そこで偶《たまたま》渋江の家から来合せていた五百に、「どうかして遣ってくれ」という。五百は姉を宥《なだ》め賺《すか》して、横山町へ連れて往った。
会津屋に往って見れば、敬はうろうろ立ち廻っている。銓はまだ泣いている。妻《さい》の出た跡で、更に酒を呼んだ宗右衛門は、気味の悪い笑顔《えがお》をして五百を迎える。五百は徐《しずか》に詫言《わびごと》を言う。主人はなかなか聴《き》かない。暫《しばら》く語を交えている間に、主人は次第に饒舌《じょうぜつ》になって、光※[#「諂のつくり+炎」、第3水準1−87−64]万丈《こうえんばんじょう》当るべからざるに至った。宗右衛門は好んで故事を引く。偽書《ぎしょ》『孔叢子《こうそうし》』の孔氏三世妻を出《いだ》したという説が出る。祭仲《さいちゅう》の女《むすめ》雍姫《ようき》が出る。斎藤太郎左衛門《さいとうたろうざえもん》の女《むすめ》が出る。五百はこれを聞きつつ思案した。これは負けていては際限がない。例《ためし》を引いて論ずることなら、こっちにも言分《いいぶん》がないことはない。そこで五百も論陣を張って、旗鼓《きこ》相当《あいあた》った。公父《こうふ》文伯《ぶんはく》の母|季敬姜《きけいきょう》を引く。顔之推《がんしすい》の母を引く。終《つい》に「大雅思斉《たいがしせい》」の章の「刑干寡妻《かさいをただし》、至干兄弟《けいていにいたり》、以御干家邦《もってかほうをぎょす》」を引いて、宗右衛門が※[#「廱−まだれ」、第4水準2−91−84]々《ようよう》の和を破るのを責め、声色《せいしょく》共に※[#「厂+萬」、第3水準1−14−84]《はげ》しかった。宗右衛門は屈服して、「なぜあなたは男に生れなかったのです」といった。
長尾の家に争が起るごとに、五百が来なくてはならぬということになるには、こういう来歴があったのである。
その六十七
抽斎の歿した翌年安政六年には、十一月二十八日に矢島|優善《やすよし》が浜町中屋敷詰の奥通《おくどおり》にせられた。表医者の名を以て信順《のぶゆき》の側《かたわら》に侍することになったのである。今なお信頼しがたい優善が、責任ある職に就《つ》いたのは、五百のために心労を増す種であった。
抽斎の姉|須磨《すま》の生んだ長女|延《のぶ》の亡くなったのは、多分この年の事であっただろう。允成《ただしげ》の実父稲垣清蔵の養子が大矢清兵衛《おおやせいべえ》で、清兵衛の子が飯田良清《いいだよしきよ》で、良清の女《むすめ》がこの延である。容貌《ようぼう》の美しい女で、小舟町《こぶねちょう》の鰹節問屋《かつおぶしどいや》新井屋半七《あらいやはんしち》というものに嫁していた。良清の長男|直之助《なおのすけ》は早世して、跡には養子|孫三郎《まござぶろう》と、延の妹|路《みち》とが残った。孫三郎の事は後に見えている。
抽斎歿後の第二年は万延《まんえん》元年である。成善《しげよし》はまだ四歳であったが、夙《はや》くも浜町中屋敷の津軽|信順《のぶゆき》に近習として仕えることになった。勿論《もちろん》時々機嫌を伺いに出るに止《とど》まっていたであろう。この時新に中小姓になって中屋敷に勤める矢川文一郎《やがわぶんいちろう》というものがあって、穉《おさな》い成善の世話をしてくれた。
矢川には本末《ほんばつ》両家がある。本家は長足流《ちょうそくりゅう》の馬術を伝えていて、世文内《よよぶんない》と称した。先代文内の嫡男|与四郎《よしろう》は、当時|順承《ゆきつぐ》の側用人になって、父の称を襲《つ》いでいた。妻|児玉《こだま》氏は越前国|敦賀《つるが》の城主|酒井《さかい》右京亮《うきょうのすけ》忠※[#「田+比」、第3水準1−86−44]《ただやす》の家来某の女《むすめ》であった。二百石八人扶持の家である。与四郎の文内に弟があり、妹があって、彼を宗兵衛《そうべえ》といい、此《これ》を岡野《おかの》といった。宗兵衛は分家して、近習小姓倉田|小十郎《こじゅうろう》の女《むすめ》みつを娶《めと》った。岡野は順承附の中臈《ちゅうろう》になった。実は妾《しょう》である。
文一郎はこの宗兵衛の長子である。その母の姉妹には林有的《はやしゆうてき》の妻、佐竹永海《さたけえいかい》の妻などがある。佐竹は初め山内氏五百を娶らんとして成らず、遂に矢川氏を納《い》れた。某《それ》の年の元日に佐竹は山内へ廻礼に来て、庭に立っていた五百の手を※[#「てへん+參」、198−15]《と》ろうとすると、五百はその手を強く引いて放した。佐竹は庭の池に墜《お》ちた。山内では佐竹に栄次郎の衣服を著《き》せて帰した。五百は後に抽斎に嫁してから、両国中村楼の書画会に往って、佐竹と邂逅《かいこう》した。そして佐竹の数人の芸妓《げいぎ》に囲まれているのを見て、「佐竹さん、相変らず英雄|色《いろ》を好むとやらですね」といった。佐竹は頭を掻《か》いて苦笑したそうである。
文一郎の父は早く世を去って、母みつは再嫁した。そこ
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