》いといった。
 これらの言《こと》を聞いた後《のち》に、抽斎の生涯を回顧すれば、誰人《たれひと》もその言行一致を認めずにはいられまい。抽斎は内《うち》徳義を蓄え、外《ほか》誘惑を却《しりぞ》け、恒《つね》に己《おのれ》の地位に安んじて、時の到るを待っていた。我らは抽斎の一たび徴《め》されて起《た》ったのを見た。その躋寿館《せいじゅかん》の講師となった時である。我らは抽斎のまさに再び徴《め》されて辞せんとするのを見た。恐らくはそのまさに奥医師たるべき時であっただろう。進むべくして進み、辞すべくして辞する、その事に処するに、綽々《しゃくしゃく》として余裕があった。抽斎の咸《かん》の九四《きゅうし》を説いたのは虚言ではない。
 抽斎の森|枳園《きえん》における、塩田|良三《りょうさん》における、妻岡西氏における、その人を待つこと寛宏《かんこう》なるを見るに足る。抽斎は※[#「挈」の「手」に代えて「糸」、第3水準1−90−4]矩の道において得る所があったのである。
 抽斎の性行とその由って来《きた》る所とは、ほぼ上述の如くである。しかしここにただ一つ剰《あま》す所の問題がある。嘉永安政の時代は天下の士人をして悉《ことごと》く岐路に立たしめた。勤王に之《ゆ》かんか、佐幕に之かんか。時代はその中間において鼠《ねずみ》いろの生を偸《ぬす》むことを容《ゆる》さなかった。抽斎はいかにこれに処したか。
 この間題は抽斎をして思慮を費《ついや》さしむることを要せなかった。何故《なにゆえ》というに、渋江氏の勤王は既に久しく定まっていたからである。

   その六十

 渋江氏の勤王はその源委《げんい》を詳《つまびらか》にしない。しかし抽斎の父允成に至って、師|柴野栗山《しばのりつざん》に啓発せられたことは疑を容《い》れない。允成が栗山に従学した年月は明《あきらか》でないが、栗山が五十三歳で幕府の召《めし》に応じて江戸に入《い》った天明八年には、允成が丁度二十五歳になっていた。家督してから四年の後《のち》である。允成が栗山の門に入ったのは、恐らくはその後《ご》久しきを経ざる間の事であっただろう。これは栗山が文化四年十二月|朔《さく》に七十二歳で歿したとして推算したものである。
 允成の友にして抽斎の師たりし市野迷庵が勤王家であったことは、その詠史の諸作に徴して知ることが出来る。この詩は維新後森|枳園《きえん》が刊行した。抽斎は啻《ただ》に家庭において王室を尊崇《そんそう》する心を養成せられたのみでなく、また迷庵の説を聞いて感奮したらしい。
 抽斎の王室における、常に耿々《こうこう》の心を懐《いだ》いていた。そしてかつて一たびこれがために身命を危《あやう》くしたことがある。保さんはこれを母五百に聞いたが、憾《うら》むらくはその月日を詳にしない。しかし本所においての出来事で、多分安政三年の頃であったらしいということである。
 或日|手島良助《てじまりょうすけ》というものが抽斎に一の秘事を語った。それは江戸にある某|貴人《きにん》の窮迫の事であった。貴人は八百両の金がないために、まさに苦境に陥らんとしておられる。手島はこれを調達せんと欲して奔走しているが、これを獲《う》る道がないというのであった。抽斎はこれを聞いて慨然として献金を思い立った。抽斎は自家の窮乏を口実として、八百両を先取《さきどり》することの出来る無尽講《むじんこう》を催した。そして親戚故旧を会して金を醵出《きょしゅつ》せしめた。
 無尽講の夜《よる》、客が已《すで》に散じた後《のち》、五百は沐浴《もくよく》していた。明朝《みょうちょう》金を貴人の許《もと》に齎《もたら》さんがためである。この金を上《たてまつ》る日は予《あらかじ》め手島をして貴人に稟《もう》さしめて置いたのである。
 抽斎は忽《たちま》ち剥啄《はくたく》の声を聞いた。仲間《ちゅうげん》が誰何《すいか》すると、某貴人の使《つかい》だといった。抽斎は引見した。来たのは三人の侍《さぶらい》である。内密に旨《むね》を伝えたいから、人払《ひとばらい》をしてもらいたいという。抽斎は三人を奥の四畳半に延《ひ》いた。三人の言う所によれば、貴人は明朝を待たずして金を獲ようとして、この使を発したということである。
 抽斎は応ぜなかった。この秘事に与《あずか》っている手島は、貴人の許《もと》にあって職を奉じている。金は手島を介して上《たてまつ》ることを約してある。面《おもて》を識《し》らざる三人に交付することは出来ぬというのである。三人は手島の来ぬ事故《じこ》を語った。抽斎は信ぜないといった。
 三人は互《たがい》に目語《もくご》して身を起し、刀の※[#「木+覇」、第4水準2−15−85]《つか》に手を掛けて抽斎を囲んだ。そしていった。我らの言《こと》を信ぜぬというは無礼である。かつ重要の御使《おんつかい》を承わってこれを果さずに還《かえ》っては面目《めんぼく》が立たない。主人はどうしても金をわたさぬか。すぐに返事をせよといった。
 抽斎は坐したままで暫《しばら》く口を噤《つぐ》んでいた。三人が偽《いつわり》の使だということは既に明《あきらか》である。しかしこれと格闘することは、自分の欲せざる所で、また能《あた》わざる所である。家には若党がおり諸生がおる。抽斎はこれを呼ぼうか、呼ぶまいかと思って、三人の気色《けしき》を覗《うかが》っていた。
 この時廊下に足音がせずに、障子《しょうじ》がすうっと開《あ》いた。主客は斉《ひとし》く愕《おどろ》き※[#「目+台」、第3水準1−88−79]《み》た。

   その六十一

 刀の※[#「木+覇」、第4水準2−15−85]《つか》に手を掛けて立ち上った三人の客を前に控えて、四畳半の端《はし》近く坐していた抽斎は、客から目を放さずに、障子の開いた口を斜《ななめ》に見遣《みや》った。そして妻五百の異様な姿に驚いた。
 五百は僅《わずか》に腰巻《こしまき》一つ身に著《つ》けたばかりの裸体であった。口には懐剣を銜《くわ》えていた。そして閾際《しきいぎわ》に身を屈《かが》めて、縁側に置いた小桶《こおけ》二つを両手に取り上げるところであった。小桶からは湯気《ゆげ》が立ち升《のぼ》っている。縁側《えんがわ》を戸口まで忍び寄って障子を開く時、持って来た小桶を下に置いたのであろう。
 五百は小桶を持ったまま、つと一間《ひとま》に進み入って、夫を背にして立った。そして沸き返るあがり湯を盛った小桶を、右左の二人の客に投げ附け、銜えていた懐剣を把《と》って鞘《さや》を払った。そして床《とこ》の間《ま》を背にして立った一人の客を睨《にら》んで、「どろぼう」と一声叫んだ。
 熱湯を浴びた二人《ふたり》が先に、※[#「木+覇」、第4水準2−15−85]《つか》に手を掛けた刀をも抜かずに、座敷から縁側へ、縁側から庭へ逃げた。跡の一人も続いて逃げた。
 五百は仲間や諸生の名を呼んで、「どろぼう/\」という声をその間に挟んだ。しかし家に居合せた男らの馳《は》せ集るまでには、三人の客は皆逃げてしまった。この時の事は後々《のちのち》まで渋江の家の一つ話になっていたが、五百は人のその功を称するごとに、慙《は》じて席を遁《のが》れたそうである。五百は幼くて武家奉公をしはじめた時から、匕首《ひしゅ》一口《いっこう》だけは身を放さずに持っていたので、湯殿《ゆどの》に脱ぎ棄てた衣類の傍《そば》から、それを取り上げることは出来たが、衣類を身に纏《まと》う遑《いとま》はなかったのである。
 翌朝《よくちょう》五百は金を貴人の許《もと》に持って往った。手島の言《こと》によれば、これは献金としては受けられぬ、唯|借上《かりあげ》になるのであるから、十カ年賦で返済するということであった。しかし手島が渋江氏を訪《と》うて、お手元《てもと》不如意《ふにょい》のために、今年《こんねん》は返金せられぬということが数度あって、維新の年に至るまでに、還された金は些《すこし》ばかりであった。保さんが金を受け取りに往ったこともあるそうである。
 この一条は保さんもこれを語ることを躊躇《ちゅうちょ》し、わたくしもこれを書くことを躊躇した。しかし抽斎の誠心《まごころ》をも、五百の勇気をも、かくまで明《あきらか》に見ることの出来る事実を湮滅《いんめつ》せしむるには忍びない。ましてや貴人は今は世に亡き御方《おんかた》である。あからさまにその人を斥《さ》さずに、ほぼその事を記《しる》すのは、あるいは妨《さまたげ》がなかろうか。わたくしはこう思惟《しゆい》して、抽斎の勤王を説くに当って、遂にこの事に言い及んだ。
 抽斎は勤王家ではあったが、攘夷家ではなかった。初め抽斎は西洋|嫌《ぎらい》で、攘夷に耳を傾《かたぶ》けかねぬ人であったが、前にいったとおりに、安積艮斎《あさかごんさい》の書を読んで悟る所があった。そして窃《ひそか》に漢訳の博物窮理の書を閲《けみ》し、ますます洋学の廃すべからざることを知った。当時の洋学は主に蘭学であった。嗣子の保さんに蘭語を学ばせることを遺言したのはこれがためである。
 抽斎は漢法医で、丁度蘭法医の幕府に公認せられると同時に世を去ったのである。この公認を贏《か》ち得るまでには、蘭法医は社会において奮闘した。そして彼らの攻撃の衝に当ったものは漢法医である。その応戦の跡は『漢蘭酒話』、『一夕《いっせき》医話』等の如き書に徴して知ることが出来る。抽斎は敢《あえ》て言《げん》をその間に挟《さしはさ》まなかったが、心中これがために憂え悶《もだ》えたことは、想像するに難からぬのである。

   その六十二

 わたくしは幕府が蘭法医を公認すると同時に抽斎が歿したといった。この公認は安政五年七月|初《はじめ》の事で、抽斎は翌八月の末《すえ》に歿した。
 これより先幕府は安政三年二月に、蕃書調所《ばんしょしらべしょ》を九段《くだん》坂下《さかした》元小姓組|番頭格《ばんがしらかく》竹本|主水正《もんどのしょう》正懋《せいぼう》の屋敷跡に創設したが、これは今の外務省の一部に外国語学校を兼《かね》たようなもので、医術の事には関せなかった。越えて安政五年に至って、七月三日に松平|薩摩守《さつまのかみ》斉彬《なりあきら》家来|戸塚静海《とつかせいかい》、松平肥前守|斉正《なりまさ》家来|伊東玄朴《いとうげんぼく》、松平三河守|慶倫《よしとも》家来|遠田澄庵《とおだちょうあん》、松平駿河守|勝道《かつつね》家来青木|春岱《しゅんたい》に奥医師を命じ、二百俵三人扶持を給した。これが幕府が蘭法医を任用した権輿《けんよ》で、抽斎の歿した八月二十八日に先《さきだ》つこと、僅に五十四日である。次いで同じ月の六日に、幕府は御《おん》医師即ち官医中有志のものは「阿蘭《オランダ》医術兼学|致《いたし》候とも不苦《くるしからず》候」と令した。翌日また有馬|左兵衛佐《さひょうえのすけ》道純《みちずみ》家来|竹内玄同《たけうちげんどう》、徳川|賢吉《けんきち》家来伊東|貫斎《かんさい》が奥医師を命ぜられた。この二人《ににん》もまた蘭法医である。
 抽斎がもし生きながらえていて、幕府の聘《へい》を受けることを肯《がえん》じたら、これらの蘭法医と肩を比《くら》べて仕えなくてはならなかったであろう。そうなったら旧思想を代表すべき抽斎は、新思想を齎《もたら》し来《きた》った蘭法医との間に、厭《いと》うべき葛藤《かっとう》を生ずることを免れなかったかも知れぬが、あるいはまた彼《か》の多紀|※[#「くさかんむり/頤のへん」、第4水準2−86−13]庭《さいてい》の手に出《い》でたという無名氏の『漢蘭酒話』、平野革谿《ひらのかくけい》の『一夕医話』等と趣を殊《こと》にした、真面目《しんめんぼく》な漢蘭医法比較研究の端緒が此《ここ》に開かれたかも知れない。
 抽斎の日常生活に人に殊なる所のあったことは、前にも折に触れて言ったが、今|遺《のこ》れるを拾って二、三の事を挙げようと思う。抽斎は病を以て防ぎ得べきものとし
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