するにこれらの諸家が新に考証学の領域を開拓して、抽斎が枳園と共に、まさに纔《わずか》に全著を成就するに至ったのである。
 わたくしは『訪古志』と『留真譜』との二書は、今少し重く評価して可なるものであろうと思う。そして頃日《けいじつ》国書刊行会が『訪古志』を『解題叢書』中に収めて縮刷し、その伝を弘むるに至ったのを喜ぶのである。

   その五十五

 抽斎の医学上の著述には、『素問識小《そもんしきしょう》』、『素問校異』、『霊枢《れいすう》講義』がある。就中《なかんずく》『素問』は抽斎の精を殫《つく》して研窮した所である。海保漁村撰の墓誌に、抽斎が『説文《せつもん》』を引いて『素問』の陰陽結斜は結糾《けつきゅう》の訛《か》なりと説いたことが載せてある。また七損八益を説くに、『玉房秘訣《ぎょくぼうひけつ》』を引いて説いたことが載せてある。『霊枢』の如きも「不精則不正当人言亦人人異《せいならざればすなわちせいとうたらずじんげんまたじんじんことなる》」の文中、抽斎が正当を連文《れんぶん》となしたのを賞してある。抽斎の説には発明|極《きわめ》て多く、此《かく》の如き類はその一斑《いっぱん》に過ぎない。
 抽斎遺す所の手沢本《しゅたくぼん》には、往々欄外書のあるものを見る。此の如き本には『老子』がある。『難経《なんけい》』がある。
 抽斎の詩はその余事に過ぎぬが、なお『抽斎吟稿』一巻が存している。以上は漢文である。
『護痘要法』は抽斎か池田|京水《けいすい》の説を筆受《ひつじゅ》したもので、抽斎の著述中江戸時代に刊行せられた唯一の書である。
 雑著には『晏子《あんし》春秋筆録』、『劇神仙話』、『高尾考《たかおこう》』がある。『劇神仙話』は長島五郎作の言《こと》を録したものである。『高尾考』は惜《おし》むらくは完書をなしていない。
『※[#「衞/心」、165−14]語《えいご》』は抽斎が国文を以て学問の法程を記《き》して、及門《きゅうもん》の子弟に示す小冊子に命じた名であろう。この文の末尾に「天保|辛卯《しんぼう》季秋《きしゅう》抽斎|酔睡《すいすい》中に※[#「衞/心」、165−15]言《えいげん》す」と書してある。辛卯は天保二年で、抽斎が二十七歳の時である。しかし現存している一巻には、この国文八枚が紅色《こうしょく》の半紙に写してあって、その前に白紙に写した漢文の草稿二十九枚が合綴《ごうてつ》してある。その目《もく》を挙ぐれば、煩悶異文弁《はんもんいぶんべん》、仏説阿弥陀経碑《ぶっせつあみだきょうひ》、春秋外伝国語|跋《ばつ》、荘子注疏《そうしちゅうそ》跋、儀礼跋、八分書孝経《はちふんしょこうきょう》跋、橘録《きつろく》跋、沖虚至徳真経釈文《ちゅうきょしとくしんきょうしゃくぶん》跋、青帰《せいき》書目蔵書目録跋、活字板|左伝《さだん》跋、宋本校正病源候論跋、元板《げんはん》再校|千金方《せんきんほう》跋、書医心方後《いしんほうののちにしょす》、知久吉正翁墓碣《ちくよしまさおうぼけつ》、駱駝考《らくだこう》、※[#「やまいだれ+難」、第3水準1−88−63]※[#「やまいだれ+奐」、第4水準2−81−62]《たんたん》、論語義疏跋、告蘭軒先生之霊《らんけんせんせいのれいにつぐ》の十八篇である。この一冊は表紙に「※[#「衞/心」、166−6]語、抽斎述」の五字が篆文《てんぶん》で題してあって、首尾|渾《すべ》て抽斎の自筆である。徳富蘇峰《とくとみそほう》さんの蔵本になっているのを、わたくしは借覧した。
 抽斎随筆、雑録、日記、備忘録の諸冊中には、今|已《すで》に佚亡《いつぼう》したものもある。就中《なかんずく》日記は文政五年から安政五年に至るまでの三十七年間にわたる記載であって、※[#「「褒」の「保」に代えて「臼」」、第4水準2−88−19]然《ほうぜん》たる大冊数十巻をなしていた。これは上《かみ》直《ただ》ちに天明四年から天保八年に至るまでの五十四年間の允成《ただしげ》の日記に接して、その中間の文政五年から天保八年に至るまでの十六年間は父子の記載が並存していたのである。この一大記録は明治八年二月に至るまで、保《たもつ》さんが蔵していた。然るに保さんは東京《とうけい》から浜松県に赴任するに臨んで、これを両掛《りょうがけ》に納めて、親戚の家に託した。親戚はその貴重品たるを知らざるがために、これに十分の保護《ほうご》を加うることを怠った。そして悉《ことごと》くこれを失ってしまった。両掛の中にはなお前記の抽斎随筆等十余冊があり、また允成の著《あらわ》す所の『定所《ていしょ》雑録』等約三十冊があった。想《おも》うにこの諸冊は既に屏風《びょうぶ》襖《ふすま》葛籠《つづら》等の下貼《したばり》の料となったであろうか。それとも何人《なにひと》かの手に帰して、何処《どこ》かに埋没しているであろうか。これを捜討《そうとう》せんと欲するに、由るべき道がない。保さんは今に※[#「二点しんにょう+台」、第3水準1−92−53]るまで歎惜して已《や》まぬのである。
『直舎《ちょくしゃ》伝記抄』八冊は今富士川游君が蔵している。中に題号を闕《か》いたものが三冊交っているが、主に弘前医官の宿直部屋の日記を抄写したものである。上《かみ》は宝永元年から下《しも》は天保九年に至る。所々《しょしょ》に善《ぜん》云《いわく》と低書《ていしょ》した註がある。宝永元年から天明五年に至る最古の一冊は題号がなく、引用書として『津軽一統志』、『津軽軍記』、『津陽《しんよう》開記』、『御系図《ごけいず》三通』、『歴年|亀鑑《きかん》』、『孝公行実《こうこうぎょうじつ》』、『常福寺|由緒書《ゆいしょがき》』、『津梁《しんりょう》院過去帳抄』、『伝聞《でんぶん》雑録』、『東藩《とうはん》名数』、『高岡霊験記《たかおかれいげんき》』、『諸書|案文《あんもん》』、『藩翰譜《はんかんぷ》』が挙げてある。これは諸書について、主に弘前医官に関する事を抄出したものであろう。
『四《よ》つの海』は抽斎の作った謡物《うたいもの》の長唄《ながうた》である。これは書と称すべきものではないが、前に挙げた『護痘要法』と倶《とも》に、江戸時代に刊行せられた二、三葉の綴文《とじぶみ》である。
『仮面の由来』、これもまた片々《へんぺん》たる小冊子である。

   その五十六

『呂后千夫《りょこうせんふ》』は抽斎の作った小説である。庚寅《かのえとら》の元旦に書いたという自序があったそうであるから、その前年に成ったもので、即ち文政十二年二十五歳の時の作であろう。この小説は五百《いお》が来り嫁した頃には、まだ渋江の家にあって、五百は数遍《すへん》読過したそうである。或時それを筑山左衛門《ちくさんさえもん》というものが借りて往った。筑山は下野国《しもつけのくに》足利《あしかが》の名主だということであった。そして終《つい》に還《かえ》さずにしまった。以上は国文で書いたものである。
 この著述の中《うち》刊行せられたものは『経籍訪古志』、『留真譜』、『護痘要法』、『四つの海』の四種に過ぎない。その他は皆写本で、徳富蘇峰さんの所蔵の『※[#「衞/心」、168−8]語《えいご》』、富士川游さんの所蔵の『直舎《ちょくしゃ》伝記抄』及《および》已《すで》に散佚《さんいつ》した諸書を除く外は、皆|保《たもつ》さんが蔵している。
 抽斎の著述は概《おおむ》ね是《かく》の如きに過ぎない。致仕した後《のち》に、力を述作に肆《ほしいまま》にしようと期していたのに、不幸にして疫癘《えきれい》のために命《めい》を隕《おと》し、かつて内に蓄うる所のものが、遂に外《ほか》に顕《あらわ》るるに及ばずして已《や》んだのである。
 わたくしは此《ここ》に抽斎の修養について、少しく記述して置きたい。考証家の立脚地から観《み》れば、経籍は批評の対象である。在来の文を取って渾侖《こんろん》に承認すべきものではない。是《ここ》において考証家の末輩《まつばい》には、破壊を以て校勘の目的となし、毫《ごう》もピエテエの迹《あと》を存せざるに至るものもある。支那における考証学亡国論の如きは、固《もと》より人文《じんぶん》進化の道を蔽塞《へいそく》すべき陋見《ろうけん》であるが、考証学者中に往々修養のない人物を出《い》だしたという暗黒面は、その存在を否定すべきものではあるまい。
 しかし真の学者は考証のために修養を廃するような事はしない。ただ修養の全《まった》からんことを欲するには、考証を闕《か》くことは出来ぬと信じている。何故《なにゆえ》というに、修養には六経《りくけい》を窮めなくてはならない。これを窮むるには必ず考証に須《ま》つことがあるというのである。
 抽斎はその『※[#「衞/心」、169−9]語《えいご》』中にこういっている。「凡《およ》そ学問の道は、六経《りくけい》を治め聖人《せいじん》の道を身に行ふを主とする事は勿論《もちろん》なり。扨《さて》其《その》六経を読み明《あきら》めむとするには必ず其|一言《いちげん》一句をも審《つまびらか》に研究せざるべからず。一言一句を研究するには、文字《もんじ》の音義を詳《つまびらか》にすること肝要なり。文字の音義を詳にするには、先《ま》づ善本を多く求めて、異同を比讐《ひしゅう》し、謬誤《びゅうご》を校正し、其字句を定めて後《のち》に、小学に熟練して、義理始て明了なることを得《う》。譬《たと》へば高きに登るに、卑《ひく》きよりし、遠きに至るに近きよりするが如く、小学を治め字句を校讐するは、細砕《さいさい》の末業《まつぎょう》に似たれども、必ずこれをなさざれば、聖人の大道微意を明むること能《あた》はず。(中略)故に百家の書読まざるべきものなく、さすれば人間一生の内になし得がたき大業《たいぎょう》に似たれども、其内|主《しゅ》とする所の書を専《もっぱ》ら読むを緊務とす。それはいづれにも師とする所の人に随《したが》ひて教《おしえ》を受くべき所なり。さて斯《かく》の如く小学に熟練して後に、六経を窮めたらむには、聖人の大道微意に通達すること必ず成就すべし」といっている。
 これは抽斎の本領を道破したもので、考証なしには六経に通ずることが出来ず、六経に通ずることが出来なくては、何に縁《よ》って修養して好《い》いか分からぬことになるというのである。さて抽斎の此《かく》の如き見解は、全く師市野迷庵の教《おしえ》に本づいている。

   その五十七

 迷庵の考証学が奈何《いか》なるものかということは、『読書指南』について見るべきである。しかしその要旨は自序一篇に尽されている。迷庵はこういった。「孔子《こうし》は堯舜《ぎょうしゅん》三代の道を述べて、其《その》流義を立て給《たま》へり。堯舜より以下を取れるは、其事の明《あきらか》に伝はれる所なればなり。されども春秋の比《ころ》にいたりて、世変り時|遷《うつ》りて、其道一向に用ゐられず。孔子も遣《や》つては見給へども、遂に行かず。終《つい》に魯《ろ》に還《かえ》り、六経を修めて後世に伝へらる。これその堯舜三代の道を認めたまふゆゑなり。儒者は孔子をまもりて其経を修むるものなり。故に儒者の道を学ばむと思はゞ、先づ文字を精出《せいだ》して覚ゆるがよし。次に九経《きゅうけい》をよく読むべし。漢儒の注解はみな古《いにしえ》より伝受あり。自分の臆説《おくせつ》をまじへず。故に伝来を守るが儒者第一の仕事なり。(中略)宋の時|程頤《ていい》、朱熹《しゅき》等《ら》己《おの》が学を建てしより、近来|伊藤源佐《いとうげんさ》、荻生惣右衛門《おぎゅうそうえもん》などと云《い》ふやから、みな己《おのれ》の学を学とし、是非を争ひてやまず。世の儒者みな真闇《まっくら》になりてわからず。余も亦《また》少《わか》かりしより此《この》事を学びしが、迷ひてわからざりし。ふと解する所あり。学令の旨《むね》にしたがひて、それ/″\の古書をよむがよしと思へり」といった。
 要するに迷庵も抽斎も、道に至るには考証に由《よ》って至るより
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