奇とすべきは、その人が康衢《こうく》通逵《つうき》をばかり歩いていずに、往々|径《こみち》に由《よ》って行くことをもしたという事である。抽斎は宋槧《そうざん》の経子を討《もと》めたばかりでなく、古い「武鑑」や江戸図をも翫《もてあそ》んだ。もし抽斎がわたくしのコンタンポランであったなら、二人の袖《そで》は横町《よこちょう》の溝板《どぶいた》の上で摩《す》れ合ったはずである。ここにこの人とわたくしとの間に※[#「日+匿」、第4水準2−14−16]《なじ》みが生ずる。わたくしは抽斎を親愛することが出来るのである。
 わたくしはこう思う心の喜ばしさを外崎さんに告げた。そしてこれまで抽斎の何人《なんひと》なるかを知らずに、漫然抽斎のマニュスクリイの蔵※[#「去/廾」、24−15]者《ぞうきょしゃ》たる渋江氏の事蹟を訪ね、そこに先ず『経籍訪古志』を著《あらわ》した渋江道純の名を知り、その道純を識っていた人に由って、道純の子孫の現存していることを聞き、ようよう今日《こんにち》道純と抽斎とが同人であることを知ったという道行《みちゆき》を語った。
 外崎さんも事の奇なるに驚いていった。「抽斎の子なら、わたくしは織っています。」
「そうですか。長唄のお師匠さんだそうですね。」
「いいえ。それは知りません。わたくしの知っているのは抽斎の跡を継いだ子で、保《たもつ》という人です。」
「はあ。それでは渋江保という人が、抽斎の嗣子《しし》であったのですか。今保さんは何処《どこ》に住んでいますか。」
「さあ。大《だい》ぶ久しく逢いませんから、ちょっと住所がわかりかねます。しかし同郷人の中には知っているものがありましょうから、近日聞き合せて上げましょう。」

   その七

 わたくしは直《すぐ》に保さんの住所を討《たず》ねることを外崎さんに頼んだ。保という名は、わたくしは始めて聞いたのではない。これより先、弘前から来た書状の中《うち》に、こういうことを報じて来たのがあった。津軽家に仕えた渋江氏の当主は渋江保である。保は広島の師範学校の教員になっているというのであった。わたくしは職員録を検した。しかし渋江保の名は見えない。それから広島高等師範学校長|幣原坦《しではらたん》さんに書を遣《や》って問うた。しかし学校にはこの名の人はいない。またかつていたこともなかったらしい。わたくしは多くの人に渋江保の名を挙げて問うて見た。中には博文館《はくぶんかん》の発行した書籍に、この名の著者があったという人が二、三あった。しかし広島に踪跡《そうせき》がなかったので、わたくしはこの報道を疑って追跡を中絶していたのである。
 此《ここ》に至ってわたくしは抽斎の子が二人《ふたり》と、孫が一人《ひとり》と現存していることを知った。子の一人は女子で、本所にいる勝久さんである。今一人は住所の知れぬ保さんである。孫は下渋谷にいる終吉さんである。しかし保さんを識っている外崎さんは、勝久さんをも終吉さんをも識らなかった。
 わたくしはなお外崎さんについて、抽斎の事蹟を詳《つまびらか》にしようとした。外崎さんは記憶している二、三の事を語った。渋江氏の祖先は津軽|信政《のぶまさ》に召し抱えられた。抽斎はその数世《すせい》の孫《そん》で、文化《ぶんか》中に生れ、安政《あんせい》中に歿《ぼっ》した。その徳川|家慶《いえよし》に謁したのは嘉永《かえい》中の事である。墓誌銘は友人|海保漁村《かいほぎょそん》が撰《えら》んだ。外崎さんはおおよそこれだけの事を語って、追って手近《てぢか》にある書籍の中から抽斎に関する記事を抄出して贈ろうと約した。わたくしは保さんの所在《ありか》を捜すことと、この抜萃《ばっすい》を作ることとを外崎さんに頼んで置いて、諸陵寮の応接所を出た。
 外崎さんの書状は間もなく来た。それに『前田文正《まえだぶんせい》筆記』、『津軽日記』、『喫茗雑話《きつめいざつわ》』の三書から、抽斎に関する事蹟を抄出して添えてあった。中にも『喫茗雑話』から抄したものは、漁村の撰んだ抽斎の墓誌の略で、わたくしはその中《うち》に「道純|諱《いみな》全善、号抽斎、道純|其《その》字《あざな》也《なり》」という文のあるのを見出した。後に聞けば全善はかねよしと訓《よ》ませたのだそうである。
 これと殆《ほとん》ど同時に、終吉さんのやや長い書状が来た。終吉さんは風邪《ふうじゃ》が急に癒《い》えぬので、わたくしと会見するに先《さきだ》って、渋江氏に関する数件を書いて送るといって、祖父の墓の所在、現存している親戚交互の関係、家督相続をした叔父《おじ》の住所等を報じてくれた。墓は谷中《やなか》斎場の向いの横町を西へ入《い》って、北側の感応寺《かんのうじ》にある。そこへ往《い》けば漁村の撰んだ墓誌銘の全文が見られるわけである。血族関係は杵屋勝久さんが姉で、保さんが弟である。この二人の同胞《はらから》の間に脩《おさむ》という人があって、亡くなって、その子が終吉さんである。然るに勝久さんは長唄の師匠、保さんは著述家、終吉さんは図案を作ることを業とする画家であって、三軒の家は頗《すこぶ》る生計の方向を殊《こと》にしている。そこで早く怙《こ》を失った終吉さんは伯母《おば》をたよって往来《ゆきき》をしていても、勝久さんと保さんとはいつとなく疎遠になって、勝久さんは久しく弟の住所をだに知らずにいたそうである。そのうち丁度わたくしが渋江氏の子孫を捜しはじめた頃、保さんの女《むすめ》冬子《ふゆこ》さんが病死した。それを保さんが姉に報じたので、勝久さんは弟の所在《ありか》を知った。終吉さんが住所を告げてくれた叔父というのが即ち保さんである。是《ここ》においてわたくしは、外崎さんの捜索を煩《わずらわ》すまでもなく、保さんの今の牛込《うしごめ》船河原町《ふながわらちょう》の住所を知って、直《すぐ》にそれを外崎さんに告げた。

   その八

 わたくしは谷中の感応寺に往って、抽斎の墓を訪ねた。墓は容易《たやす》く見附けられた。南向の本堂の西側に、西に面して立っている。「抽斎渋江君|墓碣銘《ぼけつめい》」という篆額《てんがく》も墓誌銘も、皆|小島成斎《こじませいさい》の書である。漁村の文は頗る長い。後に保さんに聞けば、これでも碑が余り大きくなるのを恐れて、割愛して刪除《さんじょ》したものだそうである。『喫茗雑話《きつめいざつわ》』の載する所は三分の一にも足りない。わたくしはまた後に五弓雪窓《ごきゅうせっそう》がこの文を『事実文編《じじつぶんぺん》』巻《けん》の七十二に収めているのを知った。国書刊行会本を閲《けみ》するに、誤脱はないようである。ただ「撰経籍訪古志」に訓点を施して、経籍を撰び、古志を訪《と》うと訓《よ》ませてあるのに慊《あきたら》なかった。『経籍訪古志』の書名であることは論ずるまでもなく、あれは多紀※[#「くさかんむり/頤のへん」、第4水準2−86−13]庭《たきさいてい》の命じた名だということが、抽斎と森枳園《もりきえん》との作った序に見えており、訪古の字面《じめん》は、『宋史《そうし》』鄭樵《ていしょう》の伝に、名山《めいざん》大川《たいせん》に游《あそ》び、奇を捜し古《いにしえ》を訪い、書を蔵する家に遇《あ》えば、必ず借留《しゃくりゅう》し、読み尽して乃《すなわ》ち去るとあるのに出たということが、枳園の書後に見えておる。
 墓誌に三子ありとして、恒善、優善、成善の名が挙げてあり、また「一女|平野氏《ひらのうじ》出《しゅつ》」としてある。恒善はつねよし、優善はやすよし、成善はしげよしで、成善が保さんの事だそうである。また平野|氏《うじ》の生んだ女《むすめ》というのは、比良野文蔵《ひらのぶんぞう》の女《むすめ》威能《いの》が、抽斎の二人《ににん》目の妻《さい》になって生んだ純《いと》である。勝久さんや終吉さんの亡父|脩《おさむ》はこの文に載せてないのである。
 抽斎の碑の西に渋江氏の墓が四基ある。その一には「性如院宗是日体信士、庚申《こうしん》元文《げんぶん》五年閏七月十七日」と、向って右の傍《かたわら》に彫《え》ってある。抽斎の高祖父|輔之《ほし》である。中央に「得寿院量遠日妙信士、天保八酉年十月廿六日」と彫ってある。抽斎の父|允成《ただしげ》である。その間と左とに高祖父と父との配偶、夭折《ようせつ》した允成の女《むすめ》二人《ふたり》の法諡《ほうし》が彫ってある。「松峰院妙実日相信女、己丑《きちゅう》明和六年四月廿三日」とあるのは、輔之の妻、「源静院妙境信女、庚戌《こうじゅつ》寛政二年四月十三日」とあるのは、允成《ただしげ》の初《はじめ》の妻田中|氏《うじ》、「寿松院妙遠日量信女、文政十二|己丑《きちゅう》六月十四日」とあるのは、抽斎の生母|岩田氏《いわたうじ》縫《ぬい》、「妙稟童女、父名允成、母川崎氏、寛政六年|甲寅《こういん》三月七日、三歳而夭、俗名逸」とあるのも、「曇華《どんげ》水子《すいし》、文化八年|辛未《しんび》閏《じゅん》二月十四日」とあるのも、並《ならび》に皆允成の女《むすめ》である。その二には「至善院格誠日在、寛保二年|壬戌《じんじゅつ》七月二日」と一行に彫り、それと並べて「終事院菊晩日栄、嘉永七年|甲寅《こういん》三月十日」と彫ってある。至善院は抽斎の曾祖父|為隣《いりん》で、終事院は抽斎が五十歳の時父に先《さきだ》って死んだ長男|恒善《つねよし》である。その三には五人の法諡が並べて刻してある。「医妙院道意日深信士、天明《てんめい》四|甲辰《こうしん》二月二十九日」としてあるのは、抽斎の祖父|本皓《ほんこう》である。「智照院妙道日修信女、寛政四|壬子《じんし》八月二十八日」としてあるのは、本皓の妻|登勢《とせ》である。「性蓮院妙相日縁信女、父本皓、母渋江氏、安永《あんえい》六年|丁酉《ていゆう》五月三日|死《しす》、享年十九、俗名千代、作臨終歌曰《りんじゅううたをつくりていわく》」云々《うんぬん》としてあるのは、登勢の生んだ本皓の女《むすめ》である。抽斎の高祖父輔之は男子がなくて歿したので、十歳になる女《むすめ》登勢に壻《むこ》を取ったのが為隣である。為隣は登勢の人と成らぬうちに歿した。そこへ本皓が養子に来て、登勢の配偶になって、千代を生ませたのである。千代が十九歳で歿したので、渋江氏の血統は一たび絶えた。抽斎の父允成は本皓の養子である。次に某々孩子《ぼうぼうがいし》と二行に刻してあるのは、並に皆保さんの子だそうである。その四には「渋江脩之墓」と刻してあって、これは石が新しい。終吉さんの父である。
 後に聞けば墓は今一基あって、それには抽斎の六|世《せい》の祖|辰勝《しんしょう》が「寂而院宗貞日岸居士」とし、その妻が「繋縁院妙念日潮大姉」とし、五世の祖|辰盛《しんせい》が「寂照院道陸玄沢日行居士」とし、その妻が「寂光院妙照日修大姉」とし、抽斎の妻|比良野氏《ひらのうじ》が「※[#「彳+扁」、第3水準1−84−34]照院妙浄日法大姉」とし、同《おなじく》岡西《おかにし》氏が「法心院妙樹日昌大姉」としてあったが、その石の折れてしまった迹《あと》に、今の終吉さんの父の墓が建てられたのだそうである。
 わたくしは自己の敬愛している抽斎と、その尊卑二属とに、香華《こうげ》を手向《たむ》けて置いて感応寺を出た。
 尋《つ》いでわたくしは保さんを訪《と》おうと思っていると、偶《たまたま》女《むすめ》杏奴《あんぬ》が病気になった。日々《にちにち》官衙《かんが》には通《かよ》ったが、公退の時には家路を急いだ。それゆえ人を訪問することが出来ぬので、保、終吉の両渋江と外崎との三家へ、度々書状を遣った。
 三家からはそれぞれ返信があって、中にも保さんの書状には、抽斎を知るために闕《か》くべからざる資料があった。それのみではない。終吉さんはその隙《ひま》に全快したので、保さんを訪ねてくれた。抽斎の事をわたくしに語ってもらいたいと頼んだのである。叔父《おじ》甥はここに十数年を隔てて相見たのだそうである。また外崎さんも一
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