跡に、時代の古いものでは、「御馬印揃《おんうまじるしぞろえ》」、「御紋尽《ごもんづくし》」、「御屋敷附《おんやしきづけ》」の類が残って、それがやや形を整えた「江戸鑑《えどかがみ》」となり、「江戸鑑」は直ちに後のいわゆる「武鑑」に接続するのである。
わたくしは現に蒐集中であるから、わたくしの「武鑑」に対する知識は日々《にちにち》変って行く。しかし今知っている限《かぎり》を言えば、馬印揃や紋尽は寛永《かんえい》中からあったが、当時のものは今|存《そん》じていない。その存じているのは後に改板《かいはん》したものである。ただ一つここに姑《しばら》く問題外として置きたいものがある。それは沼田頼輔《ぬまたらいすけ》さんが最古の「武鑑」として報告した、鎌田氏《かまだうじ》の『治代普顕記《ちたいふけんき》』中の記載である。沼田さんは西洋で特殊な史料として研究せられているエラルヂックを、我国に興そうとしているものと見えて、紋章を研究している。そしてこの目的を以て「武鑑」をあさるうちに、土佐の鎌田氏が寛永十一年の一万石以上の諸侯を記載したのを発見した。即《すなわ》ち『治代普顕記』の一節である。沼田さんは幸にわたくしに謄写《とうしゃ》を許したから、わたくしは近いうちにこの記載を精検しようと思っている。
そんなら今に※[#「二点しんにょう+台」、第3水準1−92−53]《いた》るまでに、わたくしの見た最古の「武鑑」乃至《ないし》その類書は何かというと、それは正保《しょうほう》二年に作った江戸の「屋敷附」である。これは殆《ほとん》ど完全に保存せられた板本《はんぽん》で、末《すえ》に正保四年と刻してある。ただ題号を刻した紙が失われたので、恣《ほしいまま》に命じた名が表紙に書いてある。この本が正保四年と刻してあっても、実は正保二年に作ったものだという証拠は、巻中に数カ条あるが、試みにその一つを言えば、正保二年十二月二日に歿《ぼっ》した細川三斎《ほそかわさんさい》が三斎老として挙げてあって、またその第《やしき》を諸邸宅のオリアンタションのために引合《ひきあい》に出してある事である。この本は東京帝国大学図書館にある。
その四
わたくしはこの正保二年に出来て、四年に上梓《じょうし》せられた「屋敷附」より古い「武鑑」の類書を見たことがない。降《くだ》って慶安《けいあん》中の「紋尽《もんづくし》」になると、現に上野の帝国図書館にも一冊ある。しかし可笑《おか》しい事には、外題《げだい》に慶安としてあるものは、後に寛文《かんぶん》中に作ったもので、真に慶安中に作ったものは、内容を改めずに、後の年号を附して印行《いんこう》したものである。それから明暦《めいれき》中の本になると、世間にちらほら残っている。大学にある「紋尽」には、伴信友《ばんのぶとも》の自筆の序がある。伴は文政《ぶんせい》三年にこの本を獲《え》て、最古の「武鑑」として蔵していたのだそうである。それから寛文中の「江戸鑑《えどかがみ》」になると、世間にやや多い。
これはわたくしが数年間「武鑑」を捜索して得た断案である。然《しか》るにわたくしに先んじて、夙《はや》く同じ断案を得た人がある。それは上野の図書館にある『江戸鑑図目録《えどかんずもくろく》』という写本を見て知ることが出来る。この書は古い「武鑑」類と江戸図との目録で、著者は自己の寓目《ぐうもく》した本と、買い得て蔵していた本とを挙げている。この書に正保二年の「屋敷附」を以て当時存じていた最古の「武鑑」類書だとして、巻首に載せていて、二年の二の字の傍《かたわら》に四と註《ちゅう》している。著者は四年と刻してあるこの書の内容が二年の事実だということにも心附いていたものと見える。著者はわたくしと同じような蒐集をして、同じ断案を得ていたと見える。ついでだから言うが、わたくしは古い江戸図をも集めている。
然るにこの目録には著者の名が署してない。ただ文中に所々《しょしょ》考証を記《しる》すに当って抽斎|云《いわく》としてあるだけである。そしてわたくしの度々見た「弘前医官渋江|氏《うじ》蔵書記」の朱印がこの写本にもある。
わたくしはこれを見て、ふと渋江氏と抽斎とが同人ではないかと思った。そしてどうにかしてそれを確《たしか》めようと思い立った。
わたくしは友人、就中《なかんずく》東北地方から出た友人に逢《あ》うごとに、渋江を知らぬか、抽斎を知らぬかと問うた。それから弘前の知人にも書状を遣《や》って問い合せた。
或る日|長井金風《ながいきんぷう》さんに会って問うと、長井さんがいった。「弘前の渋江なら蔵書家で『経籍訪古志』を書いた人だ」といった。しかし抽斎と号していたかどうだかは長井さんも知らなかった。『経籍訪古志』には抽斎の号は載せてないからである。
そのうち弘前に勤めている同僚の書状が数通《すつう》届いた。わたくしはそれによってこれだけの事を知った。渋江氏は元禄《げんろく》の頃に津軽家に召し抱えられた医者の家で、代々勤めていた。しかし定府《じょうふ》であったので、弘前には深く交《まじわ》った人が少く、また渋江氏の墓所もなければ子孫もない。今|東京《とうけい》にいる人で、渋江氏と交ったかと思われるのは、飯田巽《いいだたつみ》という人である。また郷土史家として渋江氏の事蹟を知っていようかと思われるのは、外崎覚《とのさきかく》という人であるという事である。中にも外崎氏の名を指した人は、郷土の事に精《くわ》しい佐藤弥六《さとうやろく》さんという老人で、当時|大正《たいしょう》四年に七十四歳になるといってあった。
わたくしは直接に渋江氏と交ったらしいという飯田巽さんを、先ず訪ねようと思って、唐突《とうとつ》ではあったが、飯田さんの西江戸川町《にしえどがわちょう》の邸《やしき》へ往《い》った。飯田さんは素《も》と宮内省の官吏で、今某会社の監査役をしているのだそうである。西江戸川町の大きい邸はすぐに知れた。わたくしは誰《だれ》の紹介をも求めずに往ったのに、飯田さんは快《こころよ》く引見《いんけん》して、わたくしの問に答えた。飯田さんは渋江|道純《どうじゅん》を識《し》っていた。それは飯田さんの親戚《しんせき》に医者があって、その人が何か医学上にむずかしい事があると、渋江に問いに往《ゆ》くことになっていたからである。道純は本所《ほんじょ》御台所町《おだいどころちょう》に住んでいた。しかし子孫はどうなったか知らぬというのである。
その五
わたくしは飯田さんの口から始めて道純という名を聞いた。これは『経籍訪古志』の序に署してある名である。しかし道純が抽斎と号したかどうだか飯田さんは知らなかった。
切角《せっかく》道純を識《し》っていた人に会ったのに、子孫のいるかいないかもわからず、墓所を問うたつきをも得ぬのを遺憾に思って、わたくしは暇乞《いとまごい》をしようとした。その時飯田さんが、「ちょいとお待《まち》下さい、念のために妻《さい》にきいて見ますから」といった。
細君《さいくん》が席に呼び入れられた。そしてもし渋江道純の跡がどうなっているか知らぬかと問われて答えた。「道純さんの娘さんが本所|松井町《まついちょう》の杵屋勝久《きねやかつひさ》さんでございます。」
『経籍訪古志』の著者渋江道純の子が現存しているということを、わたくしはこの時始めて知った。しかし杵屋といえば長唄のお師匠さんであろう。それを本所に訪ねて、「お父《と》うさんに抽斎という別号がありましたか」とか、「お父うさんは「武鑑」を集めてお出《いで》でしたか」とかいうのは、余りに唐突ではあるまいかと、わたくしは懸念した。
わたくしは杵屋さんに男の親戚がありはせぬか、問い合わせてもらうことを飯田さんに頼んだ。飯田さんはそれをも快く諾した。わたくしは探索の一歩を進めたのを喜んで、西江戸川町の邸を辞した。
二、三日立って飯田さんの手紙が来た。杵屋さんには渋江|終吉《しゅうきち》という甥《おい》があって、下渋谷《しもしぶや》に住んでいるというのである。杵屋さんの甥といえば、道純から見れば、孫でなくてはならない。そうして見れば、道純には娘があり孫があって現存しているのである。
わたくしは直《すぐ》に終吉さんに手紙を出して、何時《いつ》何処《どこ》へ往ったら逢《あ》われようかと問うた。返事は直に来た。今|風邪《ふうじゃ》で寝ているが、なおったらこっちから往っても好《い》いというのである。手跡《しゅせき》はまだ少《わか》い人らしい。
わたくしは曠《むな》しく終吉さんの病《やまい》の癒《い》えるのを待たなくてはならぬことになった。探索はここに一頓挫《とんざ》を来《きた》さなくてはならない。わたくしはそれを遺憾に思って、この隙《ひま》に弘前から、歴史家として道純の事を知っていそうだと知らせて来た外崎覚《とのさきかく》という人を訪ねることにした。
外崎さんは官吏で、籍が諸陵寮《しょりょうりょう》にある。わたくしは宮内省へ往った。そして諸陵寮が宮城を離れた霞《かすみ》が関《せき》の三年坂上《さんねんざかうえ》にあることを教えられた。常に宮内省には往来《ゆきき》しても、諸陵寮がどこにあるということは知らなかったのである。
諸陵寮の小さい応接所《おうせつじょ》で、わたくしは初めて外崎さんに会った。飯田さんの先輩であったとは違って、この人はわたくしと齢《よわい》も相若《あいし》くという位で、しかも史学を以て仕えている人である。わたくしは傾蓋《けいがい》故《ふる》きが如き念《おもい》をした。
初対面の挨拶《あいさつ》が済んで、わたくしは来意を陳《の》べた。「武鑑」を蒐集している事、「古《こ》武鑑」に精通していた無名の人の著述が写本で伝わっている事、その無名の人は自ら抽斎と称している事、その写本に弘前の渋江という人の印がある事、抽斎と渋江とがもしや同人ではあるまいかと思っている事、これだけの事をわたくしは簡単に話して、外崎さんに解決を求めた。
その六
外崎《とのさき》さんの答は極めて明快であった。「抽斎というのは『経籍訪古志』を書いた渋江道純の号ですよ。」
わたくしは釈然とした。
抽斎渋江道純は経史子集《けいしししゅう》や医籍を渉猟して考証の書を著《あらわ》したばかりでなく、「古武鑑」や古江戸図をも蒐集して、その考証の迹《あと》を手記して置いたのである。上野の図書館にある『江戸鑑図目録』は即《すなわ》ち「古武鑑」古江戸図の訪古志である。惟《ただ》経史子集は世の重要視する所であるから、『経籍訪古志』は一の徐承祖《じょしょうそ》を得て公刊せられ、「古武鑑」や古江戸図は、わたくしどもの如き微力な好事家《こうずか》が偶《たまたま》一顧するに過ぎないから、その目録は僅《わずか》に存して人が識《し》らずにいるのである。わたくしどもはそれが帝国図書館の保護《ほうご》を受けているのを、せめてもの僥倖《ぎょうこう》としなくてはならない。
わたくしはまたこういう事を思った。抽斎は医者であった。そして官吏であった。そして経書《けいしょ》や諸子のような哲学方面の書をも読み、歴史をも読み、詩文集のような文芸方面の書をも読んだ。その迹が頗《すこぶ》るわたくしと相似ている。ただその相殊《あいこと》なる所は、古今|時《とき》を異《こと》にして、生の相及ばざるのみである。いや。そうではない。今一つ大きい差別《しゃべつ》がある。それは抽斎が哲学文芸において、考証家として樹立することを得るだけの地位に達していたのに、わたくしは雑駁《ざっぱく》なるヂレッタンチスムの境界《きょうがい》を脱することが出来ない。わたくしは抽斎に視《み》て忸怩《じくじ》たらざることを得ない。
抽斎はかつてわたくしと同じ道を歩いた人である。しかしその健脚はわたくしの比《たぐい》ではなかった。迥《はるか》にわたくしに優《まさ》った済勝《せいしょう》の具を有していた。抽斎はわたくしのためには畏敬《いけい》すべき人である。
然《しか》るに
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