、順承はこれを迎うるに決したからである。即ち側用人《そばようにん》加藤清兵衛、用人兼松|伴大夫《はんたゆう》は帰国の上《うえ》隠居謹慎、兼松三郎は帰国の上|永《なが》の蟄居《ちっきょ》を命ぜられた。
 石居《せききょ》即ち兼松三郎は後に夢醒《むせい》と題して七古《しちこ》を作った。中《うち》に「又憶世子即世後《またおもうせいしそくせいののち》、継嗣未定物議伝《けいしいまださだまらずぶつぎつたう》、不顧身分有所建《みぶんをかえりみずけんずるところあり》、因冒譴責坐北遷《よりてけんせきをおかしてほくせんにざす》」の句がある。その咎《とがめ》を受けて江戸を発する時、抽斎は四言十二句を書して贈った。中に「菅公遇譖《かんこうたまたまそしられ》、屈原独清《くつげんはひとりきよし》、」という語があった。
 この年抽斎の次男矢島|優善《やすよし》は、遂に素行修まらざるがために、表医者《おもていしゃ》を貶《へん》して小普請《こぶしん》医者とせられ、抽斎もまたこれに連繋《れんけい》して閉門|三日《さんじつ》に処せられた。

   その五十

 優善の夥伴《なかま》になっていた塩田|良三《りょうさん》は、父の勘当を蒙《こうむ》って、抽斎の家の食客《しょっかく》となった。我子の乱行《らんぎょう》のために譴《せめ》を受けた抽斎が、その乱行を助長した良三の身の上を引き受けて、家におらせたのは、余りに寛大に過ぎるようであるが、これは才を愛する情が深いからの事であったらしい。抽斎は人の寸長《すんちょう》をも見※[#「二点しんにょう+官」、第3水準1−92−56]《みのが》さずに、これに保護《ほうご》を加えて、幾《ほとん》どその瑕疵《かし》を忘れたるが如くであった。年来森|枳園《きえん》を扶掖《ふえき》しているのもこれがためである。今良三を家に置くに至ったのも、良三に幾分の才気のあるのを認めたからであろう。固《もと》より抽斎の許《もと》には、常に数人の諸生が養われていたのだから、良三はただこの群《むれ》に新《あらた》に来《きた》り加わったに過ぎない。
 数月《すうげつ》の後《のち》に、抽斎は良三を安積艮斎《あさかごんさい》の塾に住み込ませた。これより先艮斎は天保十三年に故郷に帰って、二本松《にほんまつ》にある藩学の教授になったが、弘化元年に再び江戸に来て、嘉永二年以来|昌平黌《しょうへいこう》の教授になっていた。抽斎は彼《か》の終始|濂渓《れんけい》の学を奉じていた艮斎とは深く交らなかったのに、これに良三を託したのは、良三の吏材《りさい》たるべきを知って、これを培養することを謀《はか》ったのであろう。
 抽斎の先妻徳の里方《さとかた》岡西氏では、この年七月二日に徳の父栄玄が歿し、次いで十一月十一日に徳の兄玄亭が歿した。
 栄玄は医を以て阿部家に仕えた。長子玄亭が蘭軒門下の俊才であったので、抽斎はこれと交《まじわり》を訂し、遂にその妹徳を娶《めと》るに至ったのである。徳の亡くなった後《のち》も、次男優善がその出《しゅつ》であるので、抽斎|一家《いっけ》は岡西氏と常に往来していた。
 栄玄は樸直《ぼくちょく》な人であったが、往々性癖のために言行の規矩《きく》を踰《こ》ゆるを見た。かつて八文の煮豆を買って鼠不入《ねずみいらず》の中に蔵し、しばしばその存否を検したことがある。また或日|海※[#「魚+連」、第4水準2−93−72]《ぶり》一尾を携え来って、抽斎に遺《おく》り、帰途に再び訪《と》わんことを約して去った。五百はために酒饌《しゅぜん》を設けようとして頗《すこぶ》る苦心した。それは栄玄が饌《ぜん》に対して奢侈《しゃし》を戒めたことが数次であったからである。抽斎は遺られた所の海※[#「魚+連」、第4水準2−93−72]を饗《きょう》することを命じた。栄玄は来て饗を受けたが、色《いろ》悦ばざるものの如く、遂に「客にこんな馳走《ちそう》をすることは、わたしの内《うち》ではない」といった。五百が「これはお持たせでございます」といったが、栄玄は聞えぬふりをしていた。調理法が好過《よす》ぎたのであろう。
 尤《もっと》も抽斎をして不平に堪えざらしめたのは、栄玄が庶子|苫《とま》を遇することの甚だ薄かったことである。苫は栄玄が厨下《ちゅうか》の婢《ひ》に生せた女《むすめ》である。栄玄はこれを認めて子としたのに、「あんなきたない子は畳の上には置かれない」といって、板の間《ま》に蓙《ござ》を敷いて寝させた。当時栄玄の妻は既に歿していたから、これは河東《かとう》の獅子吼《ししく》を恐れたのではなく、全く主人の性癖のためであった。抽斎は五百に議《はか》って苫を貰い受け、後|下総《しもうさ》の農家に嫁せしめた。
 栄玄の子で、父に遅るること僅《わずか》に四月《しげつ》にして歿した玄亭は、名を徳瑛《とくえい》、字《あざな》を魯直《ろちょく》といった。抽斎の友である。玄亭には二男一女があった。長男は玄庵、次男は養玄である。女《むすめ》は名を初《はつ》といった。
 この年抽斎は五十二歳、五百は四十一歳であった。抽斎が平生《へいぜい》の学術上|研鑽《けんさん》の外に最も多く思《おもい》を労したのは何事かと問うたなら、恐らくはその五十二歳にして提起した国勝手《くにがって》の議だといわなくてはなるまい。この議のまさに及ぼすべき影響の大きさと、この議の打ち克《か》たなくてはならぬ抗抵の強さとは、抽斎の十分に意識していた所であろう。抽斎はまた自己がその位《くらい》にあらずして言うことの不利なるをも知らなかったのではあるまい。然るに抽斎のこれを敢《あえ》てしたのは、必ず内にやむことをえざるものがあって敢てしたのであろう。憾《うら》むらくは要路に取ってこれを用いる手腕のある人がなかったために、弘前は遂に東北諸藩の間において一頭地を抜いて起《た》つことが出来なかった。また遂に勤王の旗幟《きし》を明《あきらか》にする時期の早きを致すことが出来なかった。

   その五十一

 安政四年には抽斎の七男|成善《しげよし》が七月二十六日を以て生れた。小字《おさなな》は三吉《さんきち》、通称は道陸《どうりく》である。即ち今の保《たもつ》さんで、父は五十三歳、母は四十二歳の時の子である。
 成善の生れた時、岡西玄庵が胞衣《えな》を乞いに来た。玄庵は父玄亭に似て夙慧《しゅくけい》であったが、嘉永三、四年の頃|癲癇《てんかん》を病んで、低能の人と化していた。天保六年の生《うまれ》であったから、病を発したのが十六、七歳の時で、今は二十三歳になっている。胞衣を乞うのは、癲癇の薬方《やくほう》として用いんがためであった。
 抽斎夫婦は喜んでこれに応じたので、玄庵は成善の胞衣を持って帰った。この時これを惜んで一夜《ひとよ》を泣き明したのは、昔抽斎の父|允成《ただしげ》の茶碗の余瀝《よれき》を舐《ねぶ》ったという老尼|妙了《みょうりょう》である。妙了は年久しく渋江の家に寄寓していて、毎《つね》に小児《しょうに》の世話をしていたが、中にも抽斎の三女|棠《とう》を愛し、今また成善の生れたのを見て、大いにこれを愛していた。それゆえ胞衣を玄庵に与えることを嫌った。俗説に胞衣を人に奪われた子は育たぬというからである。
 この年|前《さき》に貶黜《へんちつ》せられた抽斎の次男矢島|優善《やすよし》は、纔《わずか》に表医者《おもていしゃ》介《すけ》を命ぜられて、半《なかば》その位地を回復した。優善の友塩田|良三《りょうさん》は安積艮斎《あさかごんさい》の塾に入れられていたが、或日師の金百両を懐《ふところ》にして長崎に奔《はし》った。父楊庵は金を安積氏に還《かえ》し、人を九州に遣《や》って子を連れ戻した。良三はまだ残《のこり》の金を持っていたので、迎えに来た男を随《したが》えて東上するのに、駅々で人に傲《おご》ること貴公子の如くであった。この時肥後国熊本の城主細川越中守|斉護《なりもり》の四子|寛五郎《のぶごろう》は、津軽|順承《ゆきつぐ》の女壻《じょせい》にせられて東上するので、途中良三と旅宿を同じうすることがあった。斉護は子をして下情《かじょう》に通ぜしめんことを欲し、特に微行を命じたので、寛五郎と従者とは始終質素を旨としていた。驕子《きょうし》良三は往々五十四万石の細川家から、十万石の津軽家に壻入する若殿を凌《しの》いで、旅中|下風《かふう》に立っている少年の誰《たれ》なるかを知らずにいた。寛五郎は今の津軽伯で、当時|裁《わずか》に十七歳であった。
 小野氏ではこの年|令図《れいと》が致仕して、子|富穀《ふこく》が家督した。令図は小字《おさなな》を慶次郎《けいじろう》という。抽斎の祖父|本皓《ほんこう》の庶子で、母を横田氏よのという。よのは武蔵国|川越《かわごえ》の人某の女《むすめ》である。令図は出《い》でて同藩の医官二百石|小野道秀《おのどうしゅう》の末期《まつご》養子となり、有尚《ゆうしょう》と称し、後《のち》また道瑛《どうえい》と称し、累進して近習医者に至った。天明三年十一月二十六日|生《うまれ》で、致仕の時七十五歳になっていた。令図に一男一女があって、男《だん》を富穀《ふこく》といい、女《じょ》を秀《ひで》といった。
 富穀、通称は祖父と同じく道秀といった。文化四年の生《うまれ》である。十一歳にして、森|枳園《きえん》と共に抽斎の弟子《ていし》となった。家督の時は表医者であった。令図、富穀の父子は共に貨殖に長じて、弘前藩|定府《じょうふ》中の富人《ふうじん》であった。妹秀は長谷川町《はせがわちょう》の外科医|鴨池道碩《かもいけどうせき》に嫁した。
 多紀氏ではこの年二月十四日に、矢の倉の末家《ばつけ》の※[#「くさかんむり/頤のへん」、第4水準2−86−13]庭《さいてい》が六十三歳で歿し、十一月に向《むこう》柳原《やなぎはら》の本家の暁湖が五十二歳で歿した。わたくしの所蔵の安政四年「武鑑」は、※[#「くさかんむり/頤のへん」、第4水準2−86−13]庭が既に逝《ゆ》いて、暁湖がなお存していた時に成ったもので、※[#「くさかんむり/頤のへん」、第4水準2−86−13]庭の子|安琢《あんたく》が多紀安琢二百俵、父|楽春院《らくしゅんいん》として載せてあり、暁湖は旧に依《よ》って多紀|安良《あんりょう》法眼《ほうげん》二百俵、父|安元《あんげん》として載せてある。※[#「くさかんむり/頤のへん」、第4水準2−86−13]庭の楽真院を、「武鑑」には前から楽春院に作ってある。その何《なん》の故なるを詳《つまびらか》にしない。

   その五十二

 ※[#「くさかんむり/頤のへん」、第4水準2−86−13]庭《さいてい》、名は元堅《げんけん》、字《あざな》は亦柔《えきじゅう》、一に三松《さんしょう》と号す。通称は安叔《あんしゅく》、後《のち》楽真院また楽春院という。寛政七年に桂山《けいざん》の次男に生れた。幼時犬を闘《たたか》わしむることを好んで、学業を事としなかったが、人が父兄に若《し》かずというを以て責めると、「今に見ろ、立派な医者になって見せるから」といっていた。幾《いくばく》もなくして節を折って書を読み、精力|衆《しゅう》に踰《こ》え、識見|人《ひと》を驚かした。分家した初《はじめ》は本石町《ほんこくちょう》に住していたが、後に矢の倉に移った。侍医に任じ、法眼に叙せられ、次で法印に進んだ。秩禄《ちつろく》は宗家《そうか》と同じく二百俵三十人扶持である。
 ※[#「くさかんむり/頤のへん」、第4水準2−86−13]庭は治を請うものがあるときは、貧家といえども必ず応じた。そして単に薬餌《やくじ》を給するのみでなく、夏は蚊※[#「巾+廚」、第4水準2−12−1]《かや》を貽《おく》り、冬は布団《ふとん》を遣《おく》った。また三両から五両までの金を、貧窶《ひんる》の度に従って与えたこともある。
 ※[#「くさかんむり/頤のへん」、第4水準2−86−13]庭は抽斎の最も親しい友の一人《ひとり》で、二家《にか》の往来は頻繁《ひん
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