にん》渡辺三太平《わたなべさんたへい》を以てこれを幕府に呈した。十月十三日の事である。
 越えて十月十五日に、『医心方』は若年寄遠藤但馬守|胤統《たねのり》を以て躋寿館に交付せられた。この書が御用に立つものならば、書写彫刻を命ぜられるであろう。もし彫刻を命ぜられることになったら、費用は金蔵《かねぐら》から渡されるであろう。書籍は篤《とく》と取調べ、かつ刻本|売下《うりさげ》代金を以て費用を返納すべき積年賦《せきねんぷ》をも取調べるようにということであった。
 半井《なからい》広明の呈した本は三十巻三十一冊で、巻《けんの》二十五に上下がある。細《こまか》に検するに期待に負《そむ》かぬ善本であった。素《もと》『医心方』は巣元方《そうげんぼう》の『病源候論《びょうげんこうろん》』を経《けい》とし、隋唐《ずいとう》の方書百余家を緯《い》として作ったもので、その引用する所にして、支那において佚亡《いつぼう》したものが少くない。躋寿館の人々が驚き喜んだのもことわりである。
 幕府は館員の進言に従って、直ちに校刻を命じた。そしてこれと同時に、総裁|二人《ににん》、校正十三人、監理四人、写生十六人が任命せられた。総裁は多紀楽真院法印、多紀|安良《あんりょう》法眼《ほうげん》である。楽真院は※[#「くさかんむり/頤のへん」、第4水準2−86−13]庭《さいてい》、安良は暁湖《ぎょうこ》で、並《ならび》に二百俵の奥医師であるが、彼は法印、此《これ》は法眼になっていて、当時|矢《や》の倉《くら》の分家が向柳原《むこうやなぎはら》の宗家の右におったのである。校正十三人の中には伊沢柏軒、森枳園、堀川舟庵と抽斎とが加わっていた。
 躋寿館では『医心方』影写程式《えいしゃていしき》というものが出来た。写生は毎朝辰刻《まいちょうたつのこく》に登館して、一人一日《いちにんいちじつ》三|頁《けつ》を影模する。三頁を模し畢《おわ》れば、任意に退出することを許す。三頁を模すること能《あた》わざるものは、二頁を模し畢って退出しても好い。六頁を模したるものは翌日休むことを許す。影写は十一月|朔《さく》に起って、二十日に終る。日に二頁を模するものは晦《みそか》に至る。この間は三八の休課を停止する。これが程式の大要である。

   その四十五

 半井《なからい》本の『医心方』を校刻するに当って、仁和寺本を写した躋寿館の旧蔵本が参考せられたことは、問うことを須《ま》たぬであろう。然るに別に一の善本があった。それは京都|加茂《かも》の医家岡本|由顕《ゆうけん》の家から出た『医心方』巻《けんの》二十二である。
 正親町《おおぎまち》天皇の時、従《じゅ》五位|上《じょう》岡本|保晃《ほうこう》というものがあった。保晃は半井瑞策に『医心方』一巻を借りて写した。そして何故《なにゆえ》か原本を半井氏に返すに及ばずして歿した。保晃は由顕の曾祖父である。
 由顕の言う所はこうである。『医心方』は徳川家光《いえみつ》が半井瑞策に授けた書である。保晃は江戸において瑞策に師事した。瑞策の女《むすめ》が産後に病んで死に瀕《ひん》した。保晃が薬を投じて救った。瑞策がこれに報いんがために、『医心方』一巻を贈ったというのである。
『医心方』を瑞策に授けたのは、家光ではない。瑞策は京都にいた人で、江戸に下ったことはあるまい。瑞策が報恩のために物を贈ろうとしたにしても、よもや帝室から賜った『医心方』三十巻の中《うち》から、一巻を割《さ》いて贈りはしなかっただろう。凡《おおよ》そこれらの事は、前人が皆かつてこれを論弁している。
 既にして岡本氏の家衰えて、畑成文《はたせいぶん》に託してこの巻《まき》を沽《う》ろうとした。成文は錦小路《にしきこうじ》中務権少輔《なかつかさごんしょうゆう》頼易《よりおさ》に勧めて元本を買わしめ、副本はこれを己《おのれ》が家に留《とど》めた。錦小路は京都における丹波氏の裔《えい》である。
 岡本氏の『医心方』一巻は、此《かく》の如くにして伝わっていた。そして校刻の時に至って対照の用に供せられたようである。
 この年正月二十五日に、森枳園が躋寿館講師に任ぜられて、二月二日から登館した。『医心方』校刻の事の起ったのは、枳園が教職に就《つ》いてから十カ月の後《のち》である。
 抽斎の家族はこの年主人五十歳、五百《いお》三十九歳、陸《くが》八歳、水木《みき》二歳、専六生れて一歳の五人であった。矢島氏を冒した優善《やすよし》は二十歳になっていた。二年|前《ぜん》から寄寓《きぐう》していた長尾氏の家族は、本町二丁目の新宅に移った。
 安政二年が来た。抽斎の家の記録は先ず小さき、徒《あだ》なる喜《よろこび》を誌《しる》さなくてはならなかった。それは三月十九日に、六男|翠暫《すいざん》が生れたことである。後十一歳にして夭札《ようさつ》した子である。この年は人の皆知る地震の年である。しかし当時抽斎を揺り撼《うごか》して起《た》たしめたものは、独《ひとり》地震のみではなかった。
 学問はこれを身に体し、これを事に措《お》いて、始《はじめ》て用をなすものである。否《しからざ》るものは死学問である。これは世間普通の見解である。しかし学芸を研鑽《けんさん》して造詣《ぞうけい》の深きを致さんとするものは、必ずしも直ちにこれを身に体せようとはしない。必ずしも径《ただ》ちにこれを事に措こうとはしない。その※[#「石+乞」、第4水準2−82−28]々《こつこつ》として年《とし》を閲《けみ》する間には、心頭|姑《しばら》く用と無用とを度外に置いている。大いなる功績は此《かく》の如くにして始て贏《か》ち得らるるものである。
 この用無用を問わざる期間は、啻《ただ》に年《とし》を閲するのみではない。あるいは生を終るに至るかも知れない。あるいは世を累《かさ》ぬるに至るかも知れない。そしてこの期間においては、学問の生活と時務の要求とが截然《せつぜん》として二をなしている。もし時務の要求が漸《ようや》く増長し来《きた》って、強いて学者の身に薄《せま》ったなら、学者がその学問生活を抛《なげう》って起《た》つこともあろう。しかしその背面には学問のための損失がある。研鑽はここに停止してしまうからである。
 わたくしは安政二年に抽斎が喙《かい》を時事に容《い》るるに至ったのを見て、是《かく》の如き観をなすのである。

   その四十六

 米艦が浦賀《うらが》に入《い》ったのは、二年|前《ぜん》の嘉永六年六月三日である。翌安政元年には正月に艦《ふね》が再び浦賀に来て、六月に下田《しもだ》を去るまで、江戸の騒擾《そうじょう》は名状すべからざるものがあった。幕府は五月九日を以て、万石以下の士に甲冑《かっちゅう》の準備を令した。動員の備《そなえ》のない軍隊の腑甲斐《ふがい》なさが覗《うかが》われる。新将軍|家定《いえさだ》の下《もと》にあって、この難局に当ったのは、柏軒、枳園らの主侯阿部正弘である。
 今年《こんねん》に入《い》ってから、幕府は講武所を設立することを令した。次いで京都から、寺院の梵鐘《ぼんしょう》を以て大砲小銃を鋳造すべしという詔《みことのり》が発せられた。多年古書を校勘して寝食を忘れていた抽斎も、ここに至って※[#「宀/浸」、第4水準2−8−7]《やや》風潮の化誘《かゆう》する所となった。それには当時|産蓐《さんじょく》にいた女丈夫《じょじょうふ》五百《いお》の啓沃《けいよく》も与《あずか》って力があったであろう。抽斎は遂に進んで津軽士人のために画策するに至った。
 津軽|順承《ゆきつぐ》は一の進言に接した。これを上《たてまつ》ったものは用人《ようにん》加藤|清兵衛《せいべえ》、側用人《そばようにん》兼松伴大夫《かねまつはんたゆう》、目附兼松三郎である。幕府は甲冑を準備することを令した。然るに藩の士人の能《よ》くこれを遵行《じゅんこう》するものは少い。概《おおむ》ね皆衣食だに給せざるを以て、これに及ぶに遑《いとま》あらざるのである。宜《よろし》く現に甲冑を有せざるものには、金十八両を貸与してこれが貲《し》に充《み》てしめ、年賦に依って還納せしむべきである。かつ今より後毎年一度甲冑|改《あらため》を行い、手入《ていれ》を怠らしめざるようにせられたいというのである。順承はこれを可とした。
 この進言が抽斎の意より出《い》で、兼松三郎がこれを承《う》けて案を具し、両用人の賛同を得て呈せられたということは、闔藩《こうはん》皆これを知っていた。三郎は石居《せききょ》と号した。その隆準《りゅうじゅん》なるを以ての故に、抽斎は天狗《てんぐ》と呼んでいた。佐藤一斎、古賀※[#「にんべん+同」、第3水準1−14−23]庵《こがとうあん》の門人で、学殖|儕輩《せいはい》を超《こ》え、かつて昌平黌《しょうへいこう》の舎長となったこともある。当時弘前|吏胥《りしょ》中の識者として聞えていた。
 抽斎は天下多事の日に際会して、言《こと》偶《たまたま》政事に及び、武備に及んだが、此《かく》の如きは固《もと》よりその本色《ほんしょく》ではなかった。抽斎の旦暮《たんぼ》力を用いる所は、古書を講窮し、古義を闡明《せんめい》するにあった。彼は弘前藩士たる抽斎が、外来の事物に応じて動作した一時のレアクションである。此《これ》は学者たる抽斎が、終生従事していた不朽の労作である。
 抽斎の校勘の業はこの頃着々|進陟《しんちょく》していたらしい。森枳園が明治十八年に書いた『経籍訪古志』の跋《ばつ》に、緑汀会《りょくていかい》の事を記《しる》して、三十年前だといってある。緑汀とは多紀※[#「くさかんむり/頤のへん」、第4水準2−86−13]庭《たきさいてい》が本所緑町の別荘である。※[#「くさかんむり/頤のへん」、第4水準2−86−13]庭は毎月《まいげつ》一、二次、抽斎、枳園、柏軒、舟庵、海保漁村らを此《ここ》に集《つど》えた。諸子は環坐して古本《こほん》を披閲し、これが論定をなした。会の後《のち》には宴を開いた。さて二州橋上酔《にしゅうきょうじょうえい》に乗じて月を踏み、詩を詠じて帰ったというのである。同じ書に、※[#「くさかんむり/頤のへん」、第4水準2−86−13]庭がこの年安政二年より一年の後に書いた跋があって、諸子※[#「「褒」の「保」に代えて「臼」」、第4水準2−88−19]録《ほうろく》惟《こ》れ勤め、各部|頓《とみ》に成るといってあるのを見れば、論定に継ぐに編述を以てしたのも、また当時の事であったと見える。
 わたくしはこの年の地震の事を語るに先《さきだ》って、台所町の渋江の家に座敷牢《ざしきろう》があったということに説き及ぼすのを悲《かなし》む。これは二階の一室《いっしつ》を繞《めぐら》すに四目格子《よつめごうし》を以てしたもので、地震の日には工事既に竣《おわ》って、その中はなお空虚であった。もし人がその中にいたならば、渋江の家は死者を出《いだ》さざることを得なかったであろう。
 座敷牢は抽斎が忍びがたきを忍んで、次男|優善《やすよし》がために設けたものであった。

   その四十七

 抽斎が岡西氏|徳《とく》に生《うま》せた三人の子の中《うち》、ただ一人《ひとり》生き残った次男優善は、少時《しょうじ》放恣《ほうし》佚楽《いつらく》のために、頗《すこぶ》る渋江|一家《いっか》を困《くるし》めたものである。優善には塩田良三《しおだりょうさん》という遊蕩《ゆうとう》夥伴《なかま》があった。良三はかの蘭軒門下で、指の腹に杖《つえ》を立てて歩いたという楊庵《ようあん》が、家附《いえつき》の女《むすめ》に生せた嫡子である。
 わたくしは前に優善が父兄と嗜《たしみ》を異にして、煙草を喫《の》んだということを言った。しかし酒はこの人の好む所でなかった。優善も良三も、共に涓滴《けんてき》の量なくして、あらゆる遊戯に耽《ふけ》ったのである。
 抽斎が座敷牢を造った時、天保六年|生《うまれ》の優善は二十一歳になっていた。そしてその密友たる良三は天保
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