の年抽斎は四十六歳になった。
 五百の仮親比良野文蔵の歿したのも、同じ年の四月二十四日である。次いで嗣子|貞固《さだかた》が目附から留守居に進んだ。津軽家の当時の職制より見れば、いわゆる独礼《どくれい》の班《はん》に加わったのである。独礼とは式日《しきじつ》に藩主に謁するに当って、単独に進むものをいう。これより下《しも》は二人立《ににんだち》、三人立等となり、遂に馬廻《うままわり》以下の一統礼に至るのである。
 当時江戸に集っていた列藩の留守居は、宛然《えんぜん》たるコオル・ヂプロマチックを形《かたちづく》っていて、その生活は頗《すこぶ》る特色のあるものであった。そして貞固の如きは、その光明面を体現していた人物といっても好かろう。
 衣類を黒|紋附《もんつき》に限っていた糸鬢奴《いとびんやっこ》の貞固は、素《もと》より読書の人ではなかった。しかし書巻を尊崇《そんそう》して、提挈《ていけつ》をその中《うち》に求めていたことを思えば、留守居中|稀有《けう》の人物であったのを知ることが出来る。貞固は留守居に任ぜられた日に、家に帰るとすぐに、折簡《せっかん》して抽斎を請《しょう》じた。そして容《かたち》を改めていった。
「わたくしは今日《こんにち》父の跡を襲いで、留守居役を仰付《おおせつ》けられました。今までとは違った心掛《こころがけ》がなくてはならぬ役目と存ぜられます。実はそれに用立《ようだ》つお講釈が承わりたさに、御足労を願いました。あの四方に使《つかい》して君命を辱《はずかし》めずということがございましたね。あれを一つお講じ下さいますまいか。」
「先ず何よりもおよろこびを言わんではなるまい。さて講釈の事だが、これはまた至極のお思附《おもいつき》だ。委細承知しました」と抽斎は快《こころよ》く諾した。

   その四十

 抽斎は有合せの道春点《どうしゅんてん》の『論語』を取り出させて、巻《まきの》七を開いた。そして「子貢問曰《しこうといていわく》、何如斯可謂之土矣《いかなるをかこれこれをしというべき》」という所から講じ始めた。固《もと》より朱註をば顧みない。都《すべ》て古義に従って縦説横説した。抽斎は師迷庵の校刻した六朝本《りくちょうぼん》の如きは、何時《なんどき》でも毎葉《まいよう》毎行《まいこう》の文字の配置に至るまで、空《くう》に憑《よ》って思い浮べることが出来たのである。
 貞固《さだかた》は謹んで聴《き》いていた。そして抽斎が「子曰《しのたまわく》、噫斗※[#「霄」の「雨かんむり」に代えて「竹かんむり」、第3水準1−89−66]之人《ああとしょうのひと》、何足算也《なんぞかぞうるにたらん》」に説き到《いた》ったとき、貞固の目はかがやいた。
 講じ畢《おわ》った後《のち》、貞固は暫《しばら》く瞑目《めいもく》沈思していたが、徐《しずか》に起《た》って仏壇の前に往って、祖先の位牌の前にぬかずいた。そしてはっきりした声でいった。「わたくしは今日《こんにち》から一命を賭《と》して職務のために尽します。」貞固の目には涙が湛《たた》えられていた。
 抽斎はこの日に比良野の家から帰って、五百《いお》に「比良野は実に立派な侍《さむらい》だ」といったそうである。その声は震《ふるい》を帯びていたと、後に五百が話した。
 留守居になってからの貞固は、毎朝《まいちょう》日の出《いず》ると共に起きた。そして先ず厩《うまや》を見廻った。そこには愛馬|浜風《はまかぜ》が繋《つな》いであった。友達がなぜそんなに馬を気に掛けるかというと、馬は生死《しょうし》を共にするものだからと、貞固は答えた。厩から帰ると、盥嗽《かんそう》して仏壇の前に坐した。そして木魚《もくぎょ》を敲《たた》いて誦経《じゅきょう》した。この間は家人を戒めて何の用事をも取り次がしめなかった。来客もそのまま待たせられることになっていた。誦経が畢《おわ》って、髪を結わせた。それから朝餉《あさげ》の饌《ぜん》に向った。饌には必ず酒を設けさせた。朝といえども省かない。※[#「肴+殳」、第4水準2−78−4]《さかな》には選嫌《えりぎらい》をしなかったが、のだ平《へい》の蒲鉾《かまぼこ》を嗜《たし》んで、闕《か》かさずに出させた。これは贅沢品《ぜいたくひん》で、鰻《うなぎ》の丼《どんぶり》が二百文、天麩羅蕎麦《てんぷらそば》が三十二文、盛掛《もりかけ》が十六文するとき、一板《ひといた》二分二朱であった。
 朝餉《あさげ》の畢《おわ》る比《ころ》には、藩邸で巳《み》の刻の大鼓《たいこ》が鳴る。名高い津軽屋敷の櫓《やぐら》大鼓である。かつて江戸町奉行がこれを撃つことを禁ぜようとしたが、津軽家が聴《きか》ずに、とうとう上屋敷を隅田川《すみだがわ》の東に徙《うつ》されたのだと、巷説《こうせつ》に言い伝えられている。津軽家の上屋敷が神田|小川町《おがわまち》から本所に徙されたのは、元禄元年で、信政の時代である。貞固は巳の刻の大鼓を聞くと、津軽家の留守居役所に出勤して事務を処理する。次いで登城して諸家《しょけ》の留守居に会う。従者は自ら豢《やしな》っている若党|草履取《ぞうりとり》の外に、主家《しゅうけ》から附けられるのである。
 留守居には集会日というものがある。その日には城から会場へ往《ゆ》く。八百善《やおぜん》、平清《ひらせい》、川長《かわちょう》、青柳《あおやぎ》等の料理屋である。また吉原に会することもある。集会には煩瑣《はんさ》な作法があった。これを礼儀といわんは美に過ぎよう。譬《たと》えば筵席《えんせき》の觴政《しょうせい》の如く、また西洋学生団のコンマンの如しともいうべきであろうか。しかし集会に列するものは、これがために命の取遣《とりやり》をもしなくてはならなかった。就中《なかんずく》厳しく守られていたのは新参《しんざん》故参《こさん》の序次で、故参は新参のために座より起つことなく、新参は必ず故参の前に進んで挨拶《あいさつ》しなくてはならなかった。
 津軽家では留守居の年俸を三百石とし、別に一カ月の交際費十八両を給した。比良野は百石取ゆえ、これに二百石を補足せられたのである。五百《いお》の覚書《おぼえがき》に拠《よ》るに、三百石十人扶持の渋江の月割が五両一分、二百石八人扶持の矢島の月割が三両三分であった。矢島とは後に抽斎の二子|優善《やすよし》が養子に往った家の名である。これに由《よ》って観《み》れば、貞固の月収は五両一分に十八両を加えた二十三両一分と見て大いなる差違はなかろう。然るに貞固は少くも月に交際費百両を要した。しかもそれは平常の費《ついえ》である。吉原に火災があると、貞固は妓楼《ぎろう》佐野槌《さのづち》へ、百両に熨斗《のし》を附けて持たせて遣らなくてはならなかった。また相方|黛《まゆずみ》のむしんをも、折々は聴いて遣らなくてはならなかった。或る年の暮に、貞固が五百に私語したことがある。「姉《ね》えさん、察して下さい。正月が来るのに、わたしは実は褌《ふんどし》一本買う銭もない。」

   その四十一

 均《ひと》しくこれ津軽家の藩士で、柳島附の目附から、少しく貞固《さだかた》に遅れて留守居に転じたものがある。平井氏《ひらいうじ》、名は|俊章《しゅんしょう》、字《あざな》は伯民《はくみん》、小字《おさなな》は清太郎《せいたろう》、通称は修理《しゅり》で、東堂《とうどう》と号した。文化十一年|生《うまれ》で貞固よりは二つの年下である。平井の家は世禄《せいろく》二百石八人扶持なので、留守居になってから百石の補足を受けた。
 貞固は好丈夫《こうじょうふ》で威貌《いぼう》があった。東堂もまた風※[#「蚌のつくり」、第3水準1−14−6]《ふうぼう》人に優れて、しかも温容|親《したし》むべきものがあった。そこで世の人は津軽家の留守居は双壁《そうへき》だと称したそうである。
 当時の留守居役所には、この二人《ふたり》の下に留守居|下役《したやく》杉浦多吉《すぎうらたきち》、留守居|物書《ものかき》藤田徳太郎《ふじたとくたろう》などがいた。杉浦は後|喜左衛門《きざえもん》といった人で、事務に諳錬《あんれん》した六十余の老人であった。藤田は維新後に潜《ひそむ》と称した人で、当時まだ青年であった。
 或日東堂が役所で公用の書状を発せようとして、藤田に稿を属《しょく》せしめた。藤田は案を具《ぐ》して呈した。
「藤田。まずい文章だな。それにこの書様《かきざま》はどうだ。もう一遍書き直して見い。」東堂の顔は頗《すこぶ》る不機嫌に見えた。
 原来《がんらい》平井氏は善書《ぜんしょ》の家である。祖父|峩斎《がさい》はかつて筆札《ひっさつ》を高頤斎《こういさい》に受けて、その書が一時に行われたこともある。峩斎、通称は仙右衛門《せんえもん》、その子を仙蔵《せんぞう》という。後《のち》父の称を襲《つ》ぐ。この仙蔵の子が東堂である。東堂も沢田東里《さわだとうり》の門人で書名があり、かつ詩文の才をさえ有していた。それに藤田は文においても書においても、専門の素養がない。稿を更《あらた》めて再び呈したが、それが東堂を満足せしめるはずがない。
「どうもまずいな。こんな物しか出来ないのかい。一体これでは御用が勤まらないといっても好《い》い。」こういって案を藤田に還《かえ》した。
 藤田は股栗《こりつ》した。一身の恥辱、家族の悲歎が、頭《こうべ》を低《た》れている青年の想像に浮かんで、目には涙が涌《わ》いて来た。
 この時貞固が役所に来た。そして東堂に問うて事の顛末《てんまつ》を知った。
 貞固は藤田の手に持っている案を取って読んだ。
「うん。一通《ひととおり》わからぬこともないが、これでは平井の気には入るまい。足下《そっか》は気が利《き》かないのだ。」
 こういって置いて、貞固は殆《ほとん》ど同じような文句を巻紙《まきがみ》に書いた。そしてそれを東堂の手にわたした。
「どうだ。これで好《い》いかな。」
 東堂は毫《ごう》も敬服しなかった。しかし故参の文案に批評を加えることは出来ないので、色を和《やわら》げていった。
「いや、結構です。どうもお手を煩わして済みません。」
 貞固は案を東堂の手から取って、藤田にわたしていった。
「さあ。これを清書しなさい。文案はこれからはこんな工合に遣《や》るが好い。」
 藤田は「はい」といって案を受けて退いたが、心中には貞固に対して再造の恩を感じたそうである。想《おも》うに東堂は外《ほか》柔にして内《うち》険、貞固は外《ほか》猛にして内《うち》寛であったと見える。
 わたくしは前に貞固が要職の体面《たいめん》をいたわるがために窮乏して、古褌《ふるふんどし》を着けて年を迎えたことを記《しる》した。この窮乏は東堂といえどもこれを免るることを得なかったらしい。ここに中井敬所《なかいけいしょ》が大槻如電《おおつきにょでん》さんに語ったという一の事実があって、これが証に充《み》つるに足るのである。
 この事は前《さき》の日わたくしが池田|京水《けいすい》の墓と年齢とを文彦さんに問いに遣《や》った時、如電さんがかつて手記して置いたものを抄写して、文彦さんに送り、文彦さんがそれをわたくしに示した。わたくしは池田氏の事を問うたのに、何故《なにゆえ》に如電さんは平井氏の事を以て答えたか。それには理由がある。平井東堂の置いた質《しち》が流れて、それを買ったのが、池田京水の子|瑞長《ずいちょう》であったからである。

   その四十二

 東堂が質に入れたのは、銅仏|一躯《いっく》と六方印《ろくほういん》一顆《いっか》とであった。銅仏は印度《インド》で鋳造した薬師如来《やくしにょらい》で、戴曼公《たいまんこう》の遺品である。六方印は六面に彫刻した遊印《ゆういん》である。
 質流《しちながれ》になった時、この仏像を池田瑞長が買った。然《しか》るに東堂は後《のち》金が出来たので、瑞長に交渉して、価《あたい》を倍して購《あがな》い戻そうとした。瑞長は応ぜなかった。それは平井氏も、池田氏も、戴曼公の遺品を愛惜
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