文化十三年には、文晁が五十四、一斎が四十五、夏蔭が二十四、鼎斎が十八になっていた。
文晁は前にいったとおり、天保十一年に七十八で歿した。五百が二十五の時である。一斎は安政六年九月二十四日に八十八で歿した。五百が四十四の時である。夏蔭は元治《げんじ》元年八月二十六日に七十二で歿した。五百が四十九の時である。鼎斎は安政三年正月七日に五十八で歿した。五百が四十一の時である。鼎斎は画家|福田半香《ふくだはんこう》の村松町《むらまつちょう》の家へ年始の礼に往って酒に酔《え》い、水戸の剣客某と口論をし出して、其の門人に斬られたのである。
五百は鼎斎を師とした外に、近衛予楽院《このえよらくいん》と橘千蔭《たちばなのちかげ》との筆跡を臨模《りんも》したことがあるそうである。予楽院|家煕《いえひろ》は元文《げんぶん》元年に薨《こう》じた。五百の生れる前八十年である。芳宜園千蔭《はぎぞのちかげ》は身分が町奉行|与力《よりき》で、加藤|又左衛門《またざえもん》と称し、文化五年に歿した。五百の生れる前八年である。
五百は藤堂家を下ってから五年目に渋江氏に嫁した。穉《おさな》い時から親しい人を夫にするのではあるが、五百の身に取っては、自分が抽斎に嫁し得るというポッシビリテエの生じたのは、二月に岡西氏|徳《とく》が亡くなってから後《のち》の事である。常に往来していた渋江の家であるから、五百は徳の亡くなった二月から、自分の嫁して来る十一月までの間にも、抽斎を訪《と》うたことがある。未婚男女の交際とか自由結婚とかいう問題は、当時の人は夢にだに知らなかった。立派な教育のある二人《ふたり》が、男は四十歳、女は二十九歳で、多く年を閲《けみ》した友人関係を棄てて、遽《にわか》に夫婦関係に入《い》ったのである。当時においては、醒覚《せいかく》せる二人《ににん》の間に、此《かく》の如く婚約が整ったということは、絶《たえ》てなくして僅《わずか》にあるものといって好かろう。
わたくしは鰥夫《おとこやもめ》になった抽斎の許《もと》へ、五百の訪《とぶら》い来た時の緊張したシチュアションを想像する。そして保《たもつ》さんの語った豊芥子《ほうかいし》の逸事を憶《おも》い起して可笑《おか》しく思う。五百の渋江へ嫁入する前であった。或日五百が来て抽斎と話をしていると、そこへ豊芥子が竹の皮包《かわつつみ》を持って来合せた。そして包を開いて抽斎に鮓《すし》を薦《すす》め、自分も食い、五百に是非食えといった。後に五百は、あの時ほど困ったことはないといったそうである。
その三十五
五百《いお》は抽斎に嫁するに当って、比良野文蔵の養女になった。文蔵の子で目附役《めつけやく》になっていた貞固《さだかた》は文化九年|生《うまれ》で、五百の兄栄次郎と同年であったから、五百はその妹になったのである。然るに貞固は姉|威能《いの》の跡に直る五百だからというので、五百を姉と呼ぶことにした。貞固の通称は祖父と同じ助太郎である。
文蔵は仮親《かりおや》になるからは、真《まこと》の親と余り違わぬ情誼《じょうぎ》がありたいといって、渋江氏へ往く三カ月ばかり前に、五百を我家《わがいえ》に引き取った。そして自分の身辺におらせて、煙草を填《つ》めさせ、茶を立てさせ、酒の酌をさせなどした。
助太郎は武張《ぶば》った男で、髪を糸鬢《いとびん》に結い、黒紬《くろつむぎ》の紋附を着ていた。そしてもう藍原氏《あいばらうじ》かなという嫁があった。初め助太郎とかなとは、まだかなが藍原|右衛門《うえもん》の女《むすめ》であった時、穴隙《けつげき》を鑽《き》って相見《あいまみ》えたために、二人は親々《おやおや》の勘当を受けて、裏店《うらだな》の世帯を持った。しかしどちらも可哀《かわい》い子であったので、間もなくわびが※[#「りっしんべん+(匚<夾)」、第3水準1−84−56]《かな》って助太郎は表立ってかなを妻に迎えたのである。
五百が抽斎に帰《とつ》いだ時の支度は立派であった。日野屋の資産は兄栄次郎の遊蕩《ゆうとう》によって傾《かたぶ》き掛かってはいたが、先代忠兵衛が五百に武家奉公をさせるために為向《しむ》けて置いた首飾《しゅしょく》、衣服、調度だけでも、人の目を驚かすに足るものがあった。今の世の人も奉公上りには支度があるという。しかしそれは賜物《たまわりもの》をいうのである。当時の女子《おなご》はこれに反して、主《おも》に親の為向けた物を持っていたのである。五年の後に夫が将軍に謁した時、五百はこの支度の一部を沽《う》って、夫の急を救うことを得た。またこれに先《さきだ》つこと一年に、森|枳園《きえん》が江戸に帰った時も、五百はこの支度の他の一部を贈って、枳園の妻をして面目を保たしめた。枳園の妻は後々《のちのち》までも、衣服を欲するごとに五百に請うので、お勝《かつ》さんはわたしの支度を無尽蔵だと思っているらしいといって、五百が歎息したことがある。
五百の来り嫁した時、抽斎の家族は主人夫婦、長男|恒善《つねよし》、長女|純《いと》、次男|優善《やすよし》の五人であったが、間もなく純は出《い》でて馬場氏の婦《ふ》となった。
弘化二年から嘉水元年までの間、抽斎が四十一歳から四十四歳までの間には、渋江氏の家庭に特筆すべき事が少《すくな》かった。五百の生んだ子には、弘化二年十一月二十六日|生《うまれ》の三女|棠《とう》、同三年十月十九日生れの四男|幻香《げんこう》、同四年十月八日生れの四女|陸《くが》がある。四男は死んで生れたので、幻香水子《げんこうすいし》はその法諡《ほうし》である。陸は今の杵屋勝久《きねやかつひさ》さんである。嘉永元年十二月二十八日には、長男|恒善《つねひさ》が二十三歳で月並《つきなみ》出仕を命ぜられた。
五百《いお》の里方《さとかた》では、先代忠兵衛が歿してから三年ほど、栄次郎の忠兵衛は謹慎していたが、天保十三年に三十一歳になった頃から、また吉原へ通いはじめた。相方《あいかた》は前の浜照《はまてる》であった。そして忠兵衛は遂に浜照を落籍させて妻《さい》にした。尋《つ》いで弘化三年十一月二十二日に至って、忠兵衛は隠居して、日野屋の家督を僅《わずか》に二歳になった抽斎の三女|棠《とう》に相続させ、自分は金座《きんざ》の役人の株を買って、広瀬栄次郎と名告《なの》った。
五百の姉安を娶《めと》った長尾宗右衛門は、兄の歿した跡を襲《つ》いでから、終日|手杯《てさかずき》を釈《お》かず、塗物問屋《ぬりものどいや》の帳場は番頭に任せて顧みなかった。それを温和に過ぐる性質の安は諌《いさ》めようともしないので、五百は姉を訪うてこの様子を見る度にもどかしく思ったが為方《しかた》がなかった。そういう時宗右衛門は五百を相手にして、『資治通鑑《しじつがん》』の中の人物を評しなどして、容易に帰ることを許さない。五百が強いて帰ろうとすると、宗右衛門は安の生んだお敬《けい》お銓《せん》の二人の女《むすめ》に、おばさんを留めいという。二人の女は泣いて留める。これはおばの帰った跡で家が寂しくなるのと、父が不機嫌になるのとを憂えて泣くのである。そこで五百はとうとう帰る機会を失うのである。五百がこの有様を夫に話すと、抽斎は栄次郎の同窓で、妻の姉壻たる宗右衛門の身の上を気遣《きづか》って、わざわざ横山町へ諭《さと》しに往った。宗右衛門は大いに慙《は》じて、やや産業に意を用いるようになった。
その三十六
森|枳園《きえん》は大磯で医業が流行するようになって、生活に余裕も出来たので、時々江戸へ出た。そしてその度ごとに一週間位は渋江の家に舎《やど》ることになっていた。枳園の形装《ぎょうそう》は決してかつて夜逃《よにげ》をした土地へ、忍びやかに立ち入る人とは見えなかった。保《たもつ》さんの記憶している五百《いお》の話によるに、枳園はお召縮緬《めしちりめん》の衣《きもの》を着て、海老鞘《えびざや》の脇指《わきざし》を差し、歩くに褄《つま》を取って、剥身絞《むきみしぼり》の褌《ふんどし》を見せていた。もし人がその七代目|団十郎《だんじゅうろう》を贔屓《ひいき》にするのを知っていて、成田屋《なりたや》と声を掛けると、枳園は立ち止まって見えをしたそうである。そして当時の枳園はもう四十男であった。尤《もっと》もお召縮緬を着たのは、強《あなが》ち奢侈《しゃし》と見るべきではあるまい。一|反《たん》二|分《ぶ》一朱か二分二朱であったというから、着ようと思えば着られたのであろうと、保さんがいう。
枳園の来て舎《やど》る頃に、抽斎の許《もと》にろくという女中がいた。ろくは五百が藤堂家にいた時から使ったもので、抽斎に嫁するに及んで、それを連れて来たのである。枳園は来り舎るごとに、この女を追い廻していたが、とうとう或日逃げる女を捉えようとして大行燈《おおあんどう》を覆し、畳を油だらけにした。五百は戯《たわむれ》に絶交の詩を作って枳園に贈った。当時ろくを揶揄《からか》うものは枳園のみでなく、豊芥子《ほうかいし》も訪ねて来るごとにこれに戯れた。しかしろくは間もなく渋江氏の世話で人に嫁した。
枳園はまた当時|纔《わずか》に二十歳を踰《こ》えた抽斎の長男|恒善《つねよし》の、いわゆるおとなし過ぎるのを見て、度々《たびたび》吉原へ連れて往《ゆ》こうとした。しかし恒善は聴《き》かなかった。枳園は意を五百に明かし、母の黙許というを以て恒善を動《うごか》そうとした。しかし五百は夫が吉原に往くことを罪悪としているのを知っていて、恒善を放ち遣《や》ることが出来ない。そこで五百は幾たびか枳園と論争したそうである。
枳園が此《かく》の如くにしてしばしば江戸に出たのは、遊びに出たのではなかった。故主《こしゅう》の許《もと》に帰参しようとも思い、また才学を負うた人であるから、首尾|好《よ》くは幕府の直参《じきさん》にでもなろうと思って、機会を窺《うかが》っていたのである。そして渋江の家はその策源地であった。
卒《にわか》に見れば、枳園が阿部家の古巣に帰るのは易《やす》く、新に幕府に登庸せられるのは難いようである。しかし実況にはこれに反するものがあった。枳園は既に学術を以て名を世間に馳《は》せていた。就中《なかんずく》本草《ほんぞう》に精《くわ》しいということは人が皆認めていた。阿部伊勢守正弘はこれを知らぬではない。しかしその才学のある枳園の軽佻《けいちょう》を忌む心が頗《すこぶ》る牢《かた》かった。多紀一家《たきいっけ》殊に※[#「くさかんむり/頤のへん」、第4水準2−86−13]庭《さいてい》はややこれと趣を殊にしていて、ほぼこの人の短を護《ご》して、その長を用いようとする抽斎の意に賛同していた。
枳園を帰参させようとして、最も尽力したのは伊沢|榛軒《しんけん》、柏軒の兄弟であるが、抽斎もまた福山の公用人|服部九十郎《はっとりくじゅうろう》、勘定奉行|小此木伴七《おこのぎはんしち》、大田《おおた》、宇川《うがわ》等に内談し、また小島成斎等をして説かしむること数度であった。しかしいつも藩主の反感に阻《さまた》げられて事が行われなかった。そこで伊沢兄弟と抽斎とは先ず※[#「くさかんむり/頤のへん」、第4水準2−86−13]庭の同情に愬《うった》えて幕府の用を勤めさせ、それを規模にして阿部家を説き動《うごか》そうと決心した。そして終《つい》にこの手段を以て成功した。
この期間の末《すえ》の一年、嘉永元年に至って枳園は躋寿館《せいじゅかん》の一事業たる『千金方《せんきんほう》』校刻《こうこく》を手伝うべき内命を贏《か》ち得た。そして五月には阿部正弘が枳園の帰藩を許した。
その三十七
阿部家への帰参が※[#「りっしんべん+(匚<夾)」、第3水準1−84−56]《かな》って、枳園が家族を纏《まと》めて江戸へ来ることになったので、抽斎はお玉が池の住宅の近所に貸家《かしいえ》のあったのを借りて、敷金を出し家賃を払い、応急の器什《きじゅう》を買い集めてこれ
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