対馬守《つしまのかみ》義質《よしかた》の臣塩田氏の女壻《じょせい》となった。塩田は散歩するに友を誘《いざな》わぬので、友が密《ひそか》に跡に附いて行って見ると、竹の杖《つえ》を指の腹に立てて、本郷|追分《おいわけ》の辺《へん》を徘徊《はいかい》していたそうである。伊沢の門下で枳園楊庵の二人は一双の奇癖家として遇せられていた。声色|遣《つかい》も軽業師《かるわざし》も、共に十七歳の諸生であった。
 抽斎の母|縫《ぬい》は、子婦《よめ》を迎えてから半年立って、文政七年七月朔に剃髪して寿松《じゅしょう》と称した。
 翌文政八年三月|晦《みそか》には、当時抽斎の住んでいた元柳原町六丁目の家が半焼《はんやけ》になった。この年津軽家には代替《だいがわり》があった。寧親が致仕して、大隅守《おおすみのかみ》信順《のぶゆき》が封を襲《つ》いだのである。時に信順は二十六歳、即ち抽斎より長ずること五歳であった。
 次の文政九年は抽斎が種々の事に遭逢《そうほう》した年である。先ず六月二十八日に姉|須磨《すま》が二十五歳で亡くなった。それから八月十四日に、師市野迷庵が六十二歳で歿した。最後に十二月五日に、嫡子|
前へ 次へ
全446ページ中98ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング