ただこれだけの事をここに記《しる》して置く。
 家督相続の翌年、文政六年十二月二十三日に、抽斎は十九歳で、始《はじめ》て妻を娶《めと》った。妻は下総国《しもうさのくに》佐倉の城主|堀田《ほった》相模守|正愛《まさちか》家来|大目附《おおめつけ》百石|岩田十大夫《いわたじゅうたゆう》女《むすめ》百合《ゆり》として願済《ねがいずみ》になったが、実は下野《しもつけ》国|安蘇郡《あそごおり》佐野《さの》の浪人|尾島忠助《おじまちゅうすけ》女《むすめ》定《さだ》である。この人は抽斎の父允成が、|子婦《よめ》には貧家に成長して辛酸を嘗《な》めた女を迎えたいといって選んだものだそうである。夫婦の齢《よわい》は抽斎が十九歳、定が十七歳であった。
 この年に森|枳園《きえん》は、これまで抽斎の弟子、即ち伊沢蘭軒の孫弟子であったのに、去って直ちに蘭軒に従学することになった。当時西語にいわゆるシニックで奇癖が多く、朝夕《ちょうせき》好んで俳優の身振《みぶり》声色《こわいろ》を使う枳園の同窓に、今一人|塩田楊庵《しおだようあん》という奇人があった。素《もと》越後新潟の人で、抽斎と伊沢蘭軒との世話で、宗《そう》
前へ 次へ
全446ページ中97ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング