《やすちか》の入国の時、途《みち》に要撃しようとして、出羽国秋田領|白沢宿《しらさわじゅく》まで出向いた。然《しか》るに寧親はこれを知って道を変えて帰った。大作は事|露《あらわ》れて捕《とら》えられたということである。
津軽家の祖先が南部家の被官であったということは、内藤恥叟《ないとうちそう》も『徳川十五代史』に書いている。しかし郷土史に精《くわ》しい外崎覚《とのさきかく》さんは、かつて内藤に書を寄せて、この説の誤《あやまり》を匡《ただ》そうとした。
初め津軽家と南部家とは対等の家柄であった。然るに津軽家は秀信《ひでのぶ》の世に勢《いきおい》を失って、南部家の後見《うしろみ》を受けることになり、後|元信《もとのぶ》、光信《みつのぶ》父子は人質として南部家に往っていたことさえある。しかし津軽家が南部家に仕えたことはいまだかつて聞かない。光信は彼《か》の渋江|辰盛《しんせい》を召し抱えた信政《のぶまさ》の六世の祖である。津軽家の隆興は南部家に怨《うらみ》を結ぶはずがない。この雪冤《せつえん》の文を作った外崎さんが、わたくしの渋江氏の子孫を捜し出す媒《なかだち》をしたのだから、わたくしは
前へ
次へ
全446ページ中96ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング