れはわたくし自身の判断である。わたくしは大正四年の十二月に、五郎作の長文の手紙が売《うり》に出たと聞いて、大晦日《おおみそか》に築地《つきじ》の弘文堂へ買いに往った。手紙は罫紙《けいし》十二枚に細字《さいじ》で書いたものである。文政十一年二月十九日に書いたということが、記事に拠って明《あきら》かに考えられる。ここに書いた五郎作の性行も、半《なかば》は材料をこの簡牘《かんどく》に取ったものである。宛名《あてな》の※[#「くさかんむり/必」、第3水準1−90−74]堂《ひつどう》は桑原氏《くわばらうじ》、名は正瑞《せいずい》、字《あざな》は公圭《こうけい》、通称を古作《こさく》といった。駿河国島田駅の素封家で、詩|及《および》書を善くした。玄孫|喜代平《きよへい》さんは島田駅の北半里ばかりの伝心寺《でんしんじ》に住んでいる。五郎作の能文はこの手紙一つに徴して知ることが出来るのである。
その二十三
わたくしの獲《え》た五郎作の手紙の中に、整骨家名倉弥次兵衛の流行を詠んだ狂歌がある。臂《ひじ》を傷めた時、親しく治療を受けて詠んだのである。「研《と》ぎ上ぐる刃物ならねどうちし身の名倉
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