概《おおむ》ね迷庵におけると同じく、抽斎は画《が》をも少しく学んだから、この人は抽斎の師の中《うち》に列する方が妥当であったかも知れない。
わたくしはここに真志屋五郎作《ましやごろさく》と石塚重兵衛《いしづかじゅうべえ》とを数えんがために、芸術批評家の目《もく》を立てた。二人は皆劇通であったから、此《かく》の如くに名づけたのである。あるいはおもうに、批評家といわんよりは、むしろアマトヨオルというべきであったかも知れない。
抽斎が後《のち》劇を愛するに至ったのは、当時の人の眼《まなこ》より観《み》れば、一の癖好《へきこう》であった。どうらくであった。啻《ただ》に当時において然《しか》るのみではない。是《かく》の如くに物を観る眼《まなこ》は、今もなお教育家等の間に、前代の遺物として伝えられている。わたくしはかつて歴史の教科書に、近松《ちかまつ》、竹田《たけだ》の脚本、馬琴《ばきん》、京伝《きょうでん》の小説が出て、風俗の頽敗《たいはい》を致したと書いてあるのを見た。
しかし詩の変体としてこれを視《み》れば、脚本、小説の価値も認めずには置かれず、脚本に縁《よ》って演じ出《いだ》す劇も、
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