しげ》の子で、寛政二年に生れたらしい。十六歳の時、近村の里正《りせい》今泉氏《いまいずみうじ》の壻になって、妻に嫌われ、翌年江戸に奔《はし》った。しかし誰《たれ》にたよろうというあてもないので、うろうろしているのを、日蓮宗の僧|日明《にちみょう》が見附けて、本所《ほんじょ》番場町《ばんばちょう》の妙源寺《みょうげんじ》へ連れて帰って、数月《すうげつ》間|留《と》めて置いた。そして世話をして佐藤一斎《さとういっさい》の家の学僕にした。妙源寺は今艮斎の墓碑の立っている寺である。それから二十一歳にして林述斎《はやしじゅっさい》の門に入《い》った。駿河台に住んで塾を開いたのは二十四歳の時である。そうして見ると、抽斎の生れた文化二年は艮斎が江戸に入る前年で、十六歳であった。これは艮斎が万延《まんえん》元年十一月二十二日に、七十一歳で歿したものとして推算したのである。
小島成斎名は知足《ちそく》、字《あざな》は子節《しせつ》、初め静斎と号した。通称は五一である。※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎の門下で善書を以て聞えた。海保漁村の墓表に文久《ぶんきゅう》二年十月十八日に、六十七歳で歿し
前へ
次へ
全446ページ中78ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング