、保さんが知っていたが、年歯《ねんし》に至っては全く所見がなかったからである。
過去帖に拠れば京水の父玄俊は名を某、字《あざな》を信卿《しんけい》といって寛政九年八月二日に、六十歳で歿し、母宇野氏は天明六年に三十六歳で歿した。そして京水は天保七年十一月十四日に、五十一歳で歿したのである。法諡《ほうし》して宗経軒《そうけいけん》京水|瑞英居士《ずいえいこじ》という。
これに由って観《み》れば、京水は天明六年の生《うまれ》で、抽斎の生れた文化二年には二十歳になっていた。抽斎の四人の師の中《うち》では最年少者であった。
後に抽斎と交《まじわ》る人々の中、抽斎に先《さきだ》って生れた学者は、安積艮斎《あさかごんさい》、小島成斎、岡本|况斎《きょうさい》、海保漁村である。
安積艮斎は抽斎との交《まじわり》が深くなかったらしいが、抽斎をして西学《せいがく》を忌む念を翻《ひるがえ》さしめたのはこの人の力である。艮斎、名は重信《しげのぶ》、修して信《しん》という。通称は祐助《ゆうすけ》である。奥州|郡山《こおりやま》の八幡宮《はちまんぐう》の祠官《しかん》安藤筑前《あんどうちくぜん》親重《ちか
前へ
次へ
全446ページ中77ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング