ゆえん》を書して放縦|不覊《ふき》にして人に容《い》れられず、遂《つい》に多病を以て廃せらるといってあったらしい。
 両説は必ずしも矛盾してはいない。独美は弟玄俊の子京水を養って子とした。京水が放蕩《ほうとう》であった。そこで京水を離縁して門人晋を養子に入れたとすれば、その説通ぜずというでもない。
 しかし京水が後《のち》能《よ》く自ら樹立して、その文章事業が晋に比して毫《ごう》も遜色《そんしょく》のないのを見るに、この人の凡庸でなかったことは、推測するに難《かた》くない。著述の考うべきものにも、『痘科挙要《とうかきょよう》』二巻、『痘科|鍵会通《けんかいつう》』一巻、『痘科|鍵私衡《けんしこう》』五巻、抽斎をして筆授せしめた『護痘要法《ごとうようほう》』一巻がある。養父独美が視《み》ること尋常|蕩子《とうし》の如くにして、これを逐《お》うことを惜《おし》まなかったのは、恩少きに過ぐというものではあるまいか。
 かつわたくしは京水の墓誌が何人《なにひと》の撰文《せんぶん》に係るかを知らない。しかし京水が果して独美の姪《てつ》であったなら、縦《たと》い独美が一時養って子となしたにもせよ、
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