直《ただち》に瑞仙の子なりと書したのはいかがのものであろうか。富士川さんの如きも、『日本医学史』に、墓誌に拠って瑞仙の子なりと書しているのである。また放縦だとか廃嗣だとかいうことも、此《かく》の如くに書したのが、墓誌として体《たい》を得たものであろうか。わたくしは大いにこれを疑うのである。そして墓誌の全文を見ることを得ず、その撰者を審《つまびらか》にすることを得ざるのを憾《うらみ》とする。
 わたくしは独《ひとり》撰者不詳の京水墓誌を疑うのみではない。また二世瑞仙晋の撰んだ池田|氏《し》行状をも疑わざることを得ない。文は載せて『事実文編』四十五にある。
 行状に拠るに、初代瑞仙独美は享保二十年|乙卯《いつぼう》五月二十二日に生れ、文化十三年|丙子《へいし》九月六日に歿した。然るに安永六年|丁酉《ていゆう》に四十、寛政四年|壬子《じんし》に五十五、同九年|丁巳《ていし》に六十四、歿年に八十三と書してある。これは生年から順算すれば、四十三、五十八、六十三、八十二でなくてはならない。齢《よわい》を記《き》するごとに、殆《ほとん》ど必ず差《たが》っているのは何故《なにゆえ》であろうか。因《ちな
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