せんな。池田家の後《のち》は今どうなっているかわかりませんか。」こういってわたくしは憮然《ぶぜん》とした。

   その十七

 わたくしは墨汁師にいった。池田瑞仙の一族は当年の名医である。その墓の行方《ゆくえ》は探討したいものである。それに戴曼公《たいまんこう》の表石というものも、もし存していたら、名蹟の一に算すべきものであろう。嶺松寺にあった無縁の墓は、どこの共同墓地へ遷《うつ》されたか知らぬが、もしそれがわかったなら、尋ねに往《ゆ》きたいものであるといった。
 墨汁師も首肯していった。戴氏|独立《どくりゅう》の表石の事は始《はじめ》て聞いた。池田氏の上のみではない。自分も黄檗《おうばく》の衣鉢《いはつ》を伝えた身であって見れば、独立の遺蹟の存滅を意に介せずにはいられない。想うに独立は寛文中九州から師|隠元《いんげん》を黄檗山に省《せい》しに上《のぼ》る途中で寂《じゃく》したらしいから、江戸には墓はなかっただろう。嶺松寺の表石とはどんな物であったか知らぬが、あるいは牙髪塔《がはつとう》の類《たぐい》ででもあったか。それはともかくも、その石の行方も知りたい。心当りの向々《むきむき》へ
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