堂の東南にある末寺に、池田氏の墓が一基あったが、これは例の市人らしく、しかも無縁同様のものと見えた。
そこで寺僧に請うて過去帖を見たが、帖は近頃作ったもので、いろは順に檀家《だんか》の氏《うじ》が列記してある。いの部には池田氏がない。末寺の墓地にある池田氏の墓は果して無縁であった。
わたくしは空《むな》しく還《かえ》って、先ず郷人《きょうじん》宮崎幸麿《みやさきさきまろ》さんを介して、東京《とうけい》の墓の事に精《くわ》しい武田信賢《たけだしんけん》さんに問うてもらったが、武田さんは知らなかった。
そのうちわたくしは『事実文編』四十五に霧渓《むけい》の撰んだ池田|氏《し》行状のあるのを見出した。これは養父初代瑞仙の行状で、その墓が向島嶺松寺にあることを記《しる》してある。素《もと》嶺松寺には戴曼公《たいまんこう》の表石《ひょうせき》があって、瑞仙はその側《かたわら》に葬られたというのである。向島にいたわたくしも嶺松寺という寺は知らなかった。しかし既に初代瑞仙が嶺松寺に葬られたなら、京水もあるいはそこに葬られたのではあるまいかと推量した。
わたくしは再び向島へ往った。そして新小梅
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