墓の事を語ったのは保《たもつ》さんである。保さんは幼い時京水の墓に詣《もう》でたことがある。しかし寺の名は記憶していない。ただ向島であったというだけである。そのうちわたくしは富士川|游《ゆう》さんに種々の事を問いに遣《や》った。富士川さんがこれに答えた中に、京水の墓は常泉寺の傍《かたわら》にあるという事があった。
 わたくしは幼い時|向島《むこうじま》小梅村に住んでいた。初《はじめ》の家は今|須崎町《すさきちょう》になり、後《のち》の家は今小梅町になっている。その後《のち》の家から土手へ往《ゆ》くには、いつも常泉寺の裏から水戸邸《みとやしき》の北のはずれに出た。常泉寺はなじみのある寺である。
 わたくしは常泉寺に往った。今は新小梅町の内になっている。枕橋《まくらばし》を北へ渡って、徳川家の邸の南側を行くと、同じ側に常泉寺の大きい門がある。わたくしは本堂の周囲にある墓をも、境内の末寺《まつじ》の庭にある墓をも一つ一つ検した。日蓮宗《にちれんしゅう》の事だから、江戸の市人《いちびと》の墓が多い。知名の学者では、朝川善庵《あさかわぜんあん》の一家《いっけ》の墓が、本堂の西にあるだけである。本
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