医学を蘭軒に受けた後《のち》、特に痘科を京水に学ぶことになった。丁度近時の医が細菌学や原虫学や生物化学を特修すると同じ事である。
 池田氏の曼公に受けた治痘法はどんなものであったか。従来痘は胎毒だとか、穢血《えけつ》だとか、後天《こうてん》の食毒《しどく》だとかいって、諸家は各《おのおの》その見る所に従って、諸証を攻むるに一様の方を以てしたのに、池田氏は痘を一種の異毒異気だとして、いわゆる八証四節三項を分ち、偏僻《へんぺき》の治法を斥《しりぞ》けた。即ち対症療法の完全ならんことを期したのである。

   その十六

 わたくしは抽斎の師となるべき人物を数えて京水《けいすい》に及ぶに当って、ここに京水の身上《しんしょう》に関する疑《うたがい》を記《しる》して、世の人の教《おしえ》を受けたい。
 わたくしは今これを筆に上《のぼ》するに至るまでには、文書を捜り寺院を訪《と》い、また幾多の先輩知友を煩《わずら》わして解決を求めた。しかしそれは概《おおむ》ね皆|徒事《いたずらごと》であった。就中《なかんずく》憾《うらみ》とすべきは京水の墓の失踪《しっそう》した事である。
 最初にわたくしに京水の
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