ち》を襲った。遽《にわか》に見れば、なんの怪《あやし》むべき所もない。
 しかしここに問題の人物がある。それは抽斎の痘科の師となるべき池田|京水《けいすい》である。
 京水は独美の子であったか、甥《おい》であったか不明である。向島嶺松寺に立っていた墓に刻してあった誌銘には子としてあったらしい。然るに二世瑞仙|晋《しん》の子|直温《ちょくおん》の撰んだ過去帖《かこちょう》には、独美の弟|玄俊《げんしゅん》の子だとしてある。子にもせよ甥にもせよ、独美の血族たる京水は宗家を嗣《つ》ぐことが出来ないで、自立して町医《まちい》になり、下谷《したや》徒士町《かちまち》に門戸《もんこ》を張った。当時江戸には駿河台の官医二世瑞仙と、徒士町の町医京水とが両立していたのである。
 種痘の術が普及して以来、世の人は疱瘡を恐るることを忘れている。しかし昔は人のこの病を恐るること、癆《ろう》を恐れ、癌《がん》を恐れ、癩《らい》を恐るるよりも甚だしく、その流行の盛《さかん》なるに当っては、社会は一種のパニックに襲われた。池田氏の治法が徳川政府からも全国の人民からも歓迎せられたのは当然の事である。そこで抽斎も、一般
前へ 次へ
全446ページ中59ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング