の家は門人の一人が養子になって嗣《つ》いで、二世瑞仙と称した。これは上野国《こうずけのくに》桐生《きりゅう》の人|村岡善左衛門《むらおかぜんざえもん》常信《じょうしん》の二男である。名は晋《しん》、字《あざな》は柔行《じゅうこう》、また直卿《ちょくけい》、霧渓《むけい》と号した。躋寿館《せいじゅかん》の講座をもこの人が継承した。
 初め独美は曼公《まんこう》の遺法を尊重する余《あまり》に、これを一子相伝に止《とど》め、他人に授くることを拒んだ。然るに大阪にいた時、人が諫《いさ》めていうには、一人《いちにん》の能《よ》く救う所には限《かぎり》がある、良法があるのにこれを秘して伝えぬのは不仁であるといった。そこで独美は始て誓紙に血判をさせて弟子を取った。それから門人が次第に殖《ふ》えて、歿するまでには五百人を踰《こ》えた。二世瑞仙はその中から簡抜せられて螟蛉子《めいれいし》となったのである。
 独美の初代瑞仙は素《もと》源家《げんけ》の名閥だとはいうが、周防《すおう》の岩国から起って幕臣になり、駿河台の池田氏の宗家となった。それに業を継ぐべき子がなかったので、門下の俊才が入《い》って後《の
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