ったものもある。また既に成った書も、当時は書籍を刊行するということが容易でなかったので、世に公《おおやけ》にせられなかった。
 抽斎の著《あらわ》した書で、存命中に印行《いんこう》せられたのは、ただ『護痘要法《ごとうようほう》』一部のみである。これは種痘術のまだ広く行われなかった当時、医中の先覚者がこの恐るべき伝染病のために作った数種の書の一つで、抽斎は術を池田京水《いけだけいすい》に受けて記述したのである。これを除いては、ここに数え挙げるのも可笑《おか》しいほどの『四《よ》つの海』という長唄《ながうた》の本があるに過ぎない。但《ただ》しこれは当時作者が自家の体面《ていめん》をいたわって、贔屓《ひいき》にしている富士田千蔵《ふじたせんぞう》の名で公にしたのだが、今は憚《はばか》るには及ぶまい。『四つの海』は今なお杵屋《きねや》の一派では用いている謡物《うたいもの》の一つで、これも抽斎が多方面であったということを証するに足る作である。
 然《しか》らば世に多少知られている『経籍訪古志』はどうであるか。これは抽斎の考証学の方面を代表すべき著述で、森枳園《もりきえん》と分担して書いたものであ
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