ろう。しかし貧窮は旧に依《よ》っていたらしい。幕府からは嘉永三年以後十五人|扶持《ふち》出ることになり、安政《あんせい》元年にまた職務俸の如き性質の五人扶持が給せられ、年末ごとに賞銀五両が渡されたが、新しい身分のために生ずる費用は、これを以《もっ》て償うことは出来なかった。謁見の年には、当時の抽斎の妻《さい》山内氏《やまのうちうじ》五百《いお》が、衣類や装飾品を売って費用に充《み》てたそうである。五百は徳が亡くなった後《のち》に抽斎の納《い》れた四人目の妻《さい》である。
抽斎の述志の詩は、今わたくしが中村不折《なかむらふせつ》さんに書いてもらって、居間に懸けている。わたくしはこの頃抽斎を敬慕する余りに、この幅《ふく》を作らせたのである。
抽斎は現に広く世間に知られている人物ではない。偶《たまたま》少数の人が知っているのは、それは『経籍訪古志』の著者の一人《いちにん》として知っているのである。多方面であった抽斎には、本業の医学に関するものを始《はじめ》として、哲学に関するもの、芸術に関するもの等、許多《あまた》の著述がある。しかし安政五年に抽斎が五十四歳で亡くなるまでに、脱稿しなか
前へ
次へ
全446ページ中6ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング