その二

 抽斎はこの詩を作ってから三年の後《のち》、弘化《こうか》元年に躋寿館《せいじゅかん》の講師になった。躋寿館は明和《めいわ》二年に多紀玉池《たきぎょくち》が佐久間町《さくまちょう》の天文台|址《あと》に立てた医学校で、寛政《かんせい》三年に幕府の管轄《かんかつ》に移されたものである。抽斎が講師になった時には、もう玉池が死に、子|藍渓《らんけい》、孫|桂山《けいざん》、曾孫|柳※[#「さんずい+片」、第3水準1−86−57]《りゅうはん》が死に、玄孫|暁湖《ぎょうこ》の代になっていた。抽斎と親しかった桂山の二男|※[#「くさかんむり/頤のへん」、第4水準2−86−13]庭《さいてい》は、分家して館に勤めていたのである。今の制度に較《くら》べて見れば、抽斎は帝国大学医科大学の教職に任ぜられたようなものである。これと同時に抽斎は式日《しきじつ》に登城《とじょう》することになり、次いで嘉永《かえい》二年に将軍|家慶《いえよし》に謁見して、いわゆる目見《めみえ》以上の身分になった。これは抽斎の四十五歳の時で、その才が伸びたということは、この時に至って始《はじめ》て言うことが出来たであ
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