きょうていけん》を宗《そう》とする治法を施したのである。曼公、名は笠《りつ》、杭州《こうしゅう》仁和県《じんわけん》の人で、曼公とはその字《あざな》である。明《みん》の万暦《ばんれき》二十四年の生《うまれ》であるから、長崎に来た時は五十八歳であった。曼公が周防国《すおうのくに》岩国《いわくに》に足を留めていた時、池田|嵩山《すうざん》というものが治痘の法を受けた。嵩山は吉川《きっかわ》家の医官で、名を正直《せいちょく》という。先祖《せんそ》は蒲冠者《かばのかんじゃ》範頼《のりより》から出て、世々《よよ》出雲《いずも》におり、生田《いくた》氏を称した。正直の数世《すせい》の祖|信重《しんちょう》が出雲から岩国に遷《うつ》って、始《はじめ》て池田氏に更《あらた》めたのである。正直の子が信之《しんし》、信之の養子が正明《せいめい》で、皆曼公の遺法を伝えていた。
 然るに寛保二年に正明が病んでまさに歿せんとする時、その子|独美《どくび》は僅《わずか》に九歳であった。正明は法を弟|槙本坊詮応《まきもとぼうせんおう》に伝えて置いて瞑《めい》した。そのうち独美は人と成って、詮応に学んで父祖の法を得た
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