。宝暦十二年独美は母を奉じて安芸国《あきのくに》厳島《いつくしま》に遷った。厳島に疱瘡が盛《さかん》に流行したからである。安永二年に母が亡くなって、六年に独美は大阪に往《ゆ》き、西堀江《にしほりえ》隆平橋《りゅうへいばし》の畔《ほとり》に住んだ。この時独美は四十四歳であった。
 独美は寛政四年に京都に出て、東洞院《ひがしのとういん》に住んだ。この時五十九歳であった。八年に徳川|家斉《いえなり》に辟《め》されて、九年に江戸に入《い》り、駿河台《するがだい》に住んだ。この年三月独美は躋寿館《せいじゅかん》で痘科を講ずることになって、二百俵を給せられた。六十四歳の時の事である。躋寿館には独美のために始て痘科の講座が置かれたのである。
 抽斎の生れた文化二年には、独美がまだ生存して、駿河台に住んでいたはずである。年は七十二歳であった。独美は文化十三年九月六日に八十三歳で歿した。遺骸《いがい》は向島《むこうじま》小梅村《こうめむら》の嶺松寺《れいしょうじ》に葬られた。
 独美、字は善卿《ぜんけい》、通称は瑞仙《ずいせん》、錦橋《きんきょう》また蟾翁《せんおう》と号した。その蟾翁と号したには面白い
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