た》に出入《いでいり》した。その頃抽斎の四人目の妻|五百《いお》の姉が、正寧の室《しつ》鍋島氏《なべしまうじ》の女小姓を勤めて金吾《きんご》と呼ばれていた。この金吾の話に、蘭軒は蹇《あしなえ》であったので、館内《かんない》で輦《れん》に乗ることを許されていた。さて輦から降りて、匍匐《ほふく》して君側《くんそく》に進むと、阿部家の奥女中が目を見合せて笑った。或日《あるひ》正寧が偶《たまたま》この事を聞き知って、「辞安は足はなくても、腹が二人前《ににんまえ》あるぞ」といって、女中を戒めさせたということである。
 次は抽斎の痘科《とうか》の師となるべき人である。池田氏、名は※[#「大/淵」、48−5]《いん》、字《あざな》は河澄《かちょう》、通称は瑞英《ずいえい》、京水《けいすい》と号した。
 原来《がんらい》疱瘡《ほうそう》を治療する法は、久しく我国には行われずにいた。病が少しく重くなると、尋常の医家は手を束《つか》ねて傍看《ぼうかん》した。そこへ承応《じょうおう》二年に戴曼公《たいまんこう》が支那から渡って来て、不治の病を治《ち》し始めた。※[#「龍/共」、第3水準1−94−87]廷賢《
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