によるに、允成《ただしげ》は天明六年八月十九日に豊島町|通《どおり》横町《よこちょう》鎌倉《かまくら》横町|家主《いえぬし》伊右衛門店《いえもんたな》を借りた。この鎌倉横町というのは、前いった図を見るに、元柳原町と佐久間町との間で、北《きた》の方《かた》河岸《かし》に寄った所にある。允成がこの店《たな》を借りたのは、その年正月二十二日に従来住んでいた家が焼けたので、暫《しばら》く多紀桂山《たきけいざん》の許《もと》に寄宿していて、八月に至って移転したのである。その従来住んでいた家も、余り隔たっていぬ和泉橋附近であったことは、日記の文から推することが出来る。次に文政八年三月|晦《みそか》に、抽斎の元柳原六丁目の家が過半類焼したということが、日記に見えている。元柳原町は弁慶橋と同じ筋で、ただ東西|両側《りょうそく》が名を異にしているに過ぎない。想《おも》うに渋江|氏《うじ》は久しく和泉橋附近に住んでいて、天明に借りた鎌倉横町から、文政八年に至るまでの間に元柳原町に移ったのであろう。この元柳原町六丁目の家は、拍斎の生れた弁慶橋の家と同じであるかも知れぬが、あるいは抽斎の生れた文化二年に西側の
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