四日に五十五歳で亡くなった。夫に先《さきだ》つこと八年である。

   その十二

 抽斎は文化二年十一月八日に、神田弁慶橋に生れたと保《たもつ》さんがいう。これは母|五百《いお》の話を記憶しているのであろう。父|允成《ただしげ》は四十二歳、母|縫《ぬい》は三十一歳の時である。その生れた家はどの辺であるか。弁慶橋というのは橋の名ではなくて町名である。当時の江戸分間大絵図《えどぶんけんおおえず》というものを閲《けみ》するに、和泉橋《いずみばし》と新橋《あたらしばし》との間の柳原通《やなぎはらどおり》の少し南に寄って、西から東へ、お玉《たま》が池《いけ》、松枝町《まつえだちょう》、弁慶橋、元柳原町《もとやなぎはらちょう》、佐久間町《さくまちょう》、四間町《しけんちょう》、大和町《やまとちょう》、豊島町《としまちょう》という順序に、町名が注してある。そして和泉橋を南へ渡って、少し東へ偏《かたよ》って行く通が、東側は弁慶橋、西側は松枝町になっている。この通の東隣《ひがしどなり》の筋は、東側が元柳原町、西側が弁慶橋になっている。わたくしが富士川游《ふじかわゆう》さんに借りた津軽家の医官の宿直日記
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