弁慶橋にいて、その後文政八年に至るまでの間に、向側《むかいがわ》の元柳原町に移ったものと考えられぬでもない。
 抽斎は小字《おさなな》を恒吉《つねきち》といった。故越中守|信寧《のぶやす》の夫人|真寿院《しんじゅいん》がこの子を愛して、当歳の時から五歳になった頃まで、殆《ほとん》ど日ごとに召し寄せて、傍《そば》で嬉戯《きぎ》するのを見て楽《たのし》んだそうである。美丈夫允成に肖《に》た可憐児《かれんじ》であったものと想われる。
 志摩《しま》の稲垣氏の家世《かせい》は今|詳《つまびらか》にすることが出来ない。しかし抽斎の祖父清蔵も恐らくは相貌《そうぼう》の立派な人で、それが父允成を経由して抽斎に遺伝したものであろう。この身的遺伝と並行して、心的遺伝が存じていなくてはならない。わたくしはここに清蔵が主を諫めて去った人だという事実に注目する。次に後《のち》允成になった神童専之助を出《いだ》す清蔵の家庭が、尋常の家庭でないという推測を顧慮する。彼は意志の方面、此《これ》は智能《ちのう》の方面で、この両方面における遺伝的系統を繹《たず》ぬるに、抽斎の前途は有望であったといっても好《よ》かろう。
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